最初の「ドキュメントの世界」はパリの骨董市で見つけた古い写真に映された人物を探し出す過程を書いたものでした。従って、発明されて直ぐに肖像の分野で版画に取って代わった写真に興味を持ちましたが、表現手段としては特に関心が湧かず、どうしても写真を、版画と同じ分野、つまり、複数製作が容易で、視覚的な情報伝達の手段として重視してしまい、歴史の証言として、一瞬の時を定着させた映像に目を奪われがちでした。ドキュメントもその部分を取り上げて追究調査したものです。写真黎明期に、独立した芸術表現として写真を考え、写真家に転向或いは兼業した画家がたくさんいましたが、何処まで成功したか、難しい問題だと思います。それでも、自然とレンズを通してみる撮影者の被写体に対する思い入れが現れるのではないか、そこにナダールやカルジャの肖像写真の真価があり、何人かの写真家が試みた静物写真の意義があるのかもしれません。先ずはそんな写真から。

クリザンテーム、和名・
菊

 写真を写真として試みた風景写真。構図が画家としての目を感じますが、手描きのデッサンを超えたものを表現できているかどうか、どう思われますか? 年代は明確ではありませんが、それほど写真が一般化する以前の写真と思われます。

風景写真

 川で洗濯している老婆と若い娘のスナップ風写真ですが、よく観ると若い女性が革靴を履いているのが判ります。日常の洗濯に、革靴を履かなければならない程遠くの川に洗濯に行くでしょうか? 木にコートが掛かっているように見えますが、写真家のものなのか、何か不自然で、演出された写真のように思われます。

スナップ写真

 街角のカフェレストランの前での記念撮影です。たまたまいた人たちを呼び集めたようで、自然な好奇心を感じます。

カフェレストランの前

 以上、それなりに写真が普及した初期の頃の四つの写真の有り様、静物、風景、スナップ、記念撮影でした。

 古写真は版画のついでにあれば眺めた程度で、その後、ドキュメントのために絵葉書写真はかなりはっきりした目的を持って探しました。ではその絵葉書写真の内、ドキュメントに使用しなかった、バルビゾンの大通りの時代的変遷、観光地化を見てください。(クリックすれば拡大、戻るのはマウスの機能か、画面上の機能か、収集古写真の世界から)
大通り
1. 単線鉄道の線路がありません。
大通り
2. 鉄道線路が敷設され、歩道が変りました。
大通り
3. 看板の出現と左側歩道の拡張。
大通り
4. 看板がますます増えています。

 次も同じバルビゾンですが、1903年と書かれた絵葉書にガンヌの宿が写っています。三本のレンガ造りの煙突が立っているあたり、蔦の絡まっている建物です。しかし、まだ、芸術家村バルビゾンで有名なガンヌの宿として公開されていない様子が判ります。1936年になってから下の3部屋が私設美術館として公開され、現在は公立のバルビゾン派美術館になっています。絵葉書写真には意図されずに残った歴史の証言が映っていることがあり、貴重な資料になります。

ガンヌの宿

 既に名が出たナダール、カルジャに彼の先生のピエール・プティ、ナポレオン三世のお抱え写真家、名刺判肖像写真を発明して写真の普及に貢献したディズデリの4人を、名刺判肖像写真に追いました。

ディズデリ
左は奥さんに任せて出奔した郷里ブレストの写真館のものです。
ディズデリ
その裏
ディズデリ

プティ
プティ
その裏
プティ

カルジャ
カルジャ
その裏
カルジャ

これはカルジャが撮った写真ですが、喧嘩別れになった共同経営者の写真館の名刺判写真とその裏。

ロックフォー 裏

ナダールの名刺判とその裏

ナダール 裏


 そして、取って置きの写真をお見せいたします。ドキュメント写真に匹敵する、本邦、いや多分世界で初めて公開される、ナダールのお母さんの若い時の写真です。ご覧のように非常に美しい人です。かなり歳が離れたナダールの父親とパリで知り合い結婚、手広くやっていた出版業も諸般の事情でうまく行かず、郷里に戻りった父の病没後、ナダールは母と弟を連れてパリへ戻ります。その時までナダールは医者を目指していましたが、その後、経済的な問題で断念。つまり、パリに戻って、一家を支える決心をし、フェリックス・トゥールナションがトゥールナダールからナダールに ジャーナリストから戯画家を経て写真家へと変遷するわけです。そして、母親を終生愛してやまなかった様子は、この写真を見ると判る気がします。写真の縁飾りはナダール自身の手になると思われます。

ナダールの母親

 ナダールの文献に見られない貴重な写真が見せたくて、横にそれましたが、肖像写真の名刺判の評判から発想したのか、油彩画複製写真の名刺判も見つけました。商魂のたくましさを感じます。ゴッホ兄弟が勤めたグーピル美術商会のものもあります。グーピル商会は画商として、世界各地に支店を作り、特に複製美術品の版画、写真を大量に販売したようです。最盛期の本社はオペラ通りのオペラ座の斜向いの角、当時のパリ繁華街の1等地にありました。この名刺判の住所モンマルトル19番地はゴッホの弟テオが任されていた画廊です。

左上から順に、ルグノー、ドラロッシュ、ドラロッシュ、オーラス・ヴェルネ、ジャック
名刺判油彩複製写真
左の裏、グーピル商会とショウェル商会
裏

 複製写真の話に流れたので、第一回印象派展の開催される二年前の1872年に描かれた大作の写真二点。(クリックすれば拡大、戻るは前記同様)

SIROUY BRIDGMAN

 裸婦を描くために画題を考える画家たちの苦労がわかる二点。(クリックすれば拡大、戻るは前記同様)

LEFEBRE? カロリュス・デュラン

 羊飼いの娘を題材にしたアカデミックな画家の代表ブグローと、ミレーの出世作、の複製写真二点。(クリックすれば拡大、戻るは前記同様)

ブグロー ミレー

 ここで、それほど興味深い問題ではないと思いますが、画家が写真が発明されて直ぐ、画に取って代わられる危惧を持ったと同時に、画を描く参考に利用する事を考え、実際利用した例を示した資料。
この写真を見たとき、画家が画の構図に参考にするために引いたと思いました。
参考写真

 クールベは亡命先のスイスでブラウンの撮った写真でこの画を描いたと伝えられ、そんな画をかなり売ったといわれ、後年のクールベの風景画の評価を落としています。右の絵葉書はブラウンの撮影ではありませんが、なるほどと思いました。
クールベ
絵葉書

 話題をガラッと変えて、戯画家から著名な写真家になったカルジャと加えて名前のわからない写真家、それに写真家ナダール。戯画を描いたのはアンドレ・ジル。モンマルトルのシャンソン酒場で有名なラパン・ア・ジルはジルの描いたラパン(兎)を看板にしていました。ドーミエとも親しく、印象派とも知り合いのジルは画家としてサロン展にも出品していますが、最後は気が狂ってシャロントンの精神病院で亡くなりました。あまり古写真には関係ない余分な事ですね。真ん中のネガに手をくわえた戯画風写真を見せたかったのと、ジルを紹介したかったためです。

カルジャ 無名 ナダール

 最近入手したジルの1881年のサロン展入選作品と、写真館の撮影風景がわかるので、多分、宣伝のためと思われる写真を掲載します。

ジル           写真館

 余計ついでに、大好きな写真と未追跡の写真を。誰かわかりますか?

? ?


 以上で複次元の世界の紹介を終わります。楽しんでいただけましたでしょうか? 悪い趣味を見せ付けられたなど
  と思わずに、できたら、実際手に持って観る喜びを分かち合いたいと思っていますので、足繁くお通い下さい。

はじめのページへ