写真:ミレーと6人の画家たち
ミレーを中心に、他に6人の現役及び初心の画家たちが写っている写真を物語る


7.バジールも浮上、黎明期の写真様式も検討



○ 先ず、バジールの略伝から検証を始めます。

 バジールはモンペリエのとても裕福な家庭に育ち、医学と画の勉強にパリに出て来て、パリ大学医学部に登録し、グレールのアトリエにも登録し、後に印象派と称される画学生達と知り合い、医学と画の勉強に励みますが、解剖学の試験に落ち、最終的に学位試験に受からず、父親も医学への道を断念するのを認め、画の道に専念。当初モネとはかなり緊密に付き合い、1865年、サロン展に出すためにモネがシャイイ村で描いていた大画面、4.65×6mが未完で終わりましたが、そのモネの「草上の昼食」の中の4人分のモデルをバジールがしています。モネはこの画のため、かなりの借財を負う羽目になり、サロン展で幸先のよいデヴューを飾ったものの、大画面に挑む若い野心が苦難をもたらす結果になりました。唯これをモネの経済観念の欠如と看なす人もいます。それはさて置き、そんな中で、バジールは寛容な性格から、仲間の画を買ったり、買う人を紹介したりなどして、経済的に援助しながら、共に切磋琢磨して、画を描いていましたが、前記のように、惜しくも1870年に起きた普仏戦争(プロシャと始めた戦争ですが、プロシャは戦争中にビスマルクのもと、南北ドイツを統一、ドイツ帝国になりました)に志願兵として従軍し、オルレアンの北東四十キロのボーヌ・ラ・ロランドの戦いで、1870年11月28日29才に7日足りない若さで戦死してしまいました。(18日に戦死したと言う文献がありますが、25日付の両親への手紙があるので、書き写し間違いと思います。父親は10日後に遺体を見付けたと言う事で、郷里モンペリエのラングドック出版によるバジールの書簡集の年譜に28日の戦闘で戦死とあるのでそれを取りました。)興味深いので、他の印象派の画家がどうしていたかを調べると、ドガは国民軍に志願し砲兵隊に配属され、ルノワールは第十騎兵隊に徴集され、セザンヌは郷里の漁村に逼塞(ひっそく)し、モネはロンドンに妻子と共に逃避、徴兵年齢を過ぎ、且フランス国籍では無いピサロ(デンマーク領サン・トマ島に生まれ、デンマーク国籍)も最後は家族を連れてロンドンに避難、多分シスレーはイギリス人の為徴集されず、ルーヴェシエンヌ(パリの西24キロ)に留まるとも、ロンドンへ行ったともあり、不明確でしたが、結局この戦争で、ブージヴァル(パリの西18キロ、地図ではルーヴェシエンヌの隣)に所有していた全てのものを失い、他の人達と同様に侵略者に略奪され、家を壊されていると、シスレー展(1993年)カタログ年譜にあり、ルーヴェシエンヌからロンドンに避難し、ルーヴェシエンヌの家とアトリエが壊滅状態のピサロに「ブージヴァルはもっと酷(ひど)い、・・・・住民が射殺されている」と書き、パリに避難するとありました。はっきり判りませんが、前記の「ルーヴェシエンヌに留まる」「ロンドンへ行った」とあるのはピサロと混同されているのかも知れません。この包囲戦の間に貿易商の父親を病気で亡くし、家を破壊され、経済的基盤を失ったと言う事です。以上 そして、息子が負傷した報告を受けたバジールの父親は敗戦の色濃い戦争のさ中を捜し廻り、希望も空しく遺体になった息子を見付け出し、モンペリエまで連れ帰りました。 〔第1回印象派展はバジールの戦死した4年後に開催に漕ぎ着けましたが、既に1867年(クールベとマネが万国博覧会の美術展およびサロン展に対抗して個人展をした年)の両親への手紙に1874年に実現された印象派展の計画が語られています。彼が戦死しなければ、印象派展はもっと早く実現していたかも知れません〕 遺族の寄贈により、モンペリエのファーブル美術館に作品が残され、画業半ばで夭折した初期印象派の一人として、改めて注目されています。これが略歴です。

そして、伝記とそこに載っていた複製画から、意外な事が分りました。ファンタン=ラトゥールの描いた「バティニョルのアトリエ」(1868〜70年、中央に筆を持ち画を描くマネの肖像、その周りに記念撮影的に人物を配す)の右端にモネが、その手前にバジールが描かれていますが、その背の高い事! 手紙に「背が高いので、(私を)軍隊で知らない人はいない」とあり、本人が描いた「コンダミネ通りのアトリエ」にも非常に背が高く描かれています。ここで改めて、写真機から一番近い距離に座っているので大きく写っていると思っていた左端の若者を眺め直し、彼の頭を基準にして、胴体部、脚部との比率を見ると、この若者は、普通より頭部に比して胴と足が長く、背の高い人間の特徴を持っている事に気付きました。つまり、単純な遠近法で言えば、後の若者より前の若者の方が大きいのは当然の事で、何の疑問も持たず眺めていた為に気付きませんでしたが、カメラの角度、焦点の位置を考えながら見直すと、この若者は異常に背の高い事が判りました。と言う訳で、若い時の顔写真と、長身である身体的特徴から、グラスを口に当てている若者は、モネと一緒にシャイイに行ったバジールと推定されます。とすれば、ブーダンも居る事ですし、もう一人はモネと言うのが一番自然な推定と思われます。

   <既に書き上げた「写真」についての文章を一部直して抜粋。書き上げた文章に付けたタイトルは「十九世紀後半の二葉の写真 ― 画家達の肖像 ― 」です。先に説明したように、トレに関して査定間違いをしているので書き直さなければならないと思っています。又、タイトルにあるように、ほぼ同じ時期に画家達が写された、もう一葉の写真がありますが、画像に関する著作権の問題があり、写真の査定で、画像を必要とする場合、個人の研究には差し支えないのですが、公表する場合、《昭和31年(1956年)12月31日迄に製作された写真は、著作権が失効して います。 →写真を複製して使用する場合、著作者の許諾を必要としません。昭和32年(1957年)1月1日以降に製作された写真は、著作者の死後50年間迄、 著作権により保護されています。→写真を複製して使用する場合、著作者の許諾を必要とします。》とインターネットに掲載されていましたが、古い写真の画像を新たに、つまり、1957年以降に写真家が写真を取り直した場合、撮影した写真家に著作権が発生するわけで、十九世紀の著名な画等もそんなわけで、著作権が発生するようです。疑問なのは誰が写真撮影をした画像を使用したかわからない場合、イメージ自体には著作権は消滅しているわけですから、誰が著作権を主張できるのか?そのために裁判があるとの話ですが、写真を複製して使用する場合は連絡して許可を取れば無料で使用できるもの、著作権料を払わなければ使用できないものなど複雑なようで、その上、著作権の切れた画を平面的に写した写真は著作物とみなされず、著作権が発生しないともあり、古い写真などを新たに撮影した写真の著作権は別なのか、何が正しいのか? 特に、営利を目的にしているわけではないので、一点に付きいくら、しかも期限付きとなると、ホームページを書き続けるべきか考えてしまいます。>

・ 今回、バジールに関する資料が新しいので、著作権の問題が起こる可能性があります。とりあえず、ページをつくってから、考えようと思います。

○ 伝記によって突き止められたバジールの長身について、資料で確認します。

(1) 先ず、ファンタン・ラ・トゥールの「バティニョルのアトリエ」の複製画より。

資料としてだけの使用で、ファンタン・ラトゥールには申し訳ありませんが、白黒にして、人物の説明に必要な部分だけの掲載にし、著作権に対する配慮をしました。この時期のマネのアトリエはギュヨ通り81番地で現在のフォルテュニー通りです。バティニョル地区にあったのでそう呼んだのでしょう。このアトリエでマネは代表作の一つ、「ゾラの肖像」を描きサロン展に出品しています。

著作権の問題(1)
ファンタン=ラトゥール油彩画「バティニョルのアトリエ」部分、白黒

マネがアストリュックを椅子に座らせて肖像を描いているのを皆が眺めている姿を描いたものです。一番右端でこちら側を見ている顔がモネで、その手前で画を見ている横顔の長身の人物がバジールです。そのほかの人物は、立っている人物右側から、バジールに続いて、メートル、ゾラ、ルノワール、少し離れてショルデレールとなります。この中で、ショルデレールが知られていませんが、ドイツ人画家でファンタン=ラトゥールと同じ先生に学び、カフェ・ゲルボワに顔を出していたとのことで、ファンタンと親しかったのでしょう。尚、メートルはファンタンともバジールともごく親しい芸術愛好家、自身も詩を書き、ピアノを演奏します。ゾラは日本で小説家としてよく知られていますが、美術評論家としても重要な役割を演じました。つまり、二人は画家ではありません。ファンタン=ラトゥールがこの画を描いた理由といわれているのは、世間が持っている仲間の芸術家達へのイメージ(ボヘミアンで、貧乏臭いとか、反社会的であるとか)を変える試みを視覚上で行った(観念上ではゾラなどが文章で行います)ということで、多分、マネは画を描く時にこんな格好をしてなかったと思いますが、ファンタンの意図を汲めば、涙ぐましい努力と思えませんか。付け加えると、マネの印象派展への参加を止めたのは、印象派展がサロン展落選者たちの展覧会と見られかねないというファンタン=ラトゥールの忠告のせいと言われています。尚、アストリュックは第一回印象派展にだけ参加しています。話がバジールの検証からずれました。バジールの長身の検証に戻し、

(2) バジールが描いた「コンダミネ通りのアトリエ」(この画も同様、白黒で掲載します。尚、この地区も再開発されたようで、9番地にあったこの建物は現存しません。)にマネに画を見せている自分を描き込んでいますが、非常に長身です。訂正(2008/05/02)】この画にバジールの姿を描きいれたのは、「君のアトリエに君がいないのはおかしい」と言ったマネであることが文献で確認できたので、訂正します。本人が描いたのではないので、尚、客観的に彼が飛びぬけて長身であったことの証明になるでしょう。著者はこの行為をバジールとマネの好意と親しさの現れとしていますが、バジールとメートルの関係からも察しられるバジールの同性愛的傾向との解釈も可能ではないかと深読みしてしまいました。バジールの姿がマネの手になったとわかると、充分考慮して描いた画に他人が手を入れるのを許すバジールの度量の広さなのか、如何か、バジールの長身の証明よりも気に掛かる問題がこの画によって提起さるかも知れません。もう一つ、大した問題ではありませんが、通り名はコンダミヌと表記した方が良いでしょう。コンダネと言う言葉のmにiが付いただけなのでコンダミネと表記してしまいました。以上。
著作権の問題(2)
バジール油彩画「コンダミネ通りのアトリエ」、白黒
この画の中央で一番背が高く描かれているのがバジール本人で、彼の説明している相手、ステッキを持っているのがマネ、マネの後ろで、説明を聞いている今一人の人物はひげなどからシスレーと想像できます。ピアノを弾いているのがメートルで階段の途中にいるのがモネとか、モネと話しているのはルノワールでしょうか? その他の説として、ゾラ、アストリュック、医師モーリス・ルブロンなどの名が挙がっていることだけ記しておきます。

(3) 繰り返しになりますが、背の高さに関しては、本人が、普仏戦争の時、志願して、出兵先から母親に書いた手紙の中に「背が高いので、(私を)軍隊で知らない人はいない」と書いていることでバジールの身長が普通に背が高いという程度のものではなく、2点の油彩に描かれた彼の身長が誇張でない事がわかります。

ここで、「写真」の若者を見直してみましょう。

写真の若者全身像
よく見てください。「写真」を見れば、前記した事が一目瞭然でしょう。若者が座っているために直ぐには気付きませんが、顔を基準にして、頭身を測ると、胴がかなり長く、長身の人物の特徴が窺えます。また、奥のドガと査定した若者を含めた3人を順に眺め、且つ、椅子の背から上の座高の丈を見れば、遠近法を云々せずとも明らかに、手前の若者が飛びぬけて長身な事がわかります。

それに加えて、

バジール書簡集表紙このラングドック出版で編集された書簡集の中に、若い時のバジールの肖像写真を見つけました。
著作権の問題(3)
若いバジールの肖像写真小さく掲載


若い時の肖像写真と「写真」の若者を比べます。

写真の若者
「写真」の若者
バジール肖像写真
一番若い頃のバジールの肖像写真

セザンヌの若い頃の写真を掲載します。見比べてください。
この画像は本からのコピーですが、どの本か見つかりません。
 【後記、見付かりました。友達に貸していた古い画集でした。】
セザンヌ20歳の肖像写真
セザンヌ20歳の肖像写真

著作権の問題(4)

上の写真もかなり似ていて、今回、顔写真を比べるだけでは、明らかにバジールであるとは言えないようです。耳の形が違うように見えますが、角度の違いで別な形に見える可能性があり、額の生え際の形とか、ひげの有無とか、細かいところの違いを指摘しても、決め手にはなりません。それを言えば、バジールの肖像写真との比較も同じことが言えそうです。しかし、背が非常に高い身体的特徴が、この「写真」の若者がセザンヌではない明らかな決め手になるでしょう。その上、モネがバジールと行動を共にしていた事実があることを考えると、バジールの身長は確定要因になるでしょう。そして、それはモネにもブーダンにも関わる重要な査定要因になると思われます。

   バジールに関して

          1.モネと行動を共にしている。
          2.若い時の肖像写真と似ている。
          3.背が非常に高かった。

   以上の理由でこの「写真」の若者をバジールと査定します。


【追記 2012/04/23 「ミレーと母親」の写真タイトルの変更を指摘されたのをきっかけに、改めて読み返した時、永い間の写真の人物との係わり合いで、自分の頭の中では全て既知のことになってしまい、バジールの伯母がルジョンヌ少佐夫人である事も、特に強調しませんでした。マネが描いた「チュールリー公園の音楽会」は中央手前に子供を配してますが、曲って伸びた、太くない樹の左側に椅子に座った年配の婦人が大きく描かれています。マネはルジョンヌ少佐のサロンの常連を描きこんだとか、この人がバジールの伯母ルジョンヌ夫人と言うことです。ルジョンヌ少佐はミレーを評価し、例のソネット「平民のダンテ、田舎者のミケランジェロ」をミレーに奉げていることでしか知られていませんが、当時の文壇、画壇の主流というより、周辺の、後に文化の担い手になる人々のつながりをたどると、バジールの義理の伯父ルジョンヌ少佐を通した、物語の輪がつながります。その意味で、この写真の若者がバジールと査定できたことは、とても大きな意味を持つことをここで強調したいと思います。



○ 次に、文献から判断して、モネが写っていると思われ、バジールと査定した若者の後ろにいる若者を取り上げます。

最初にブーダンを査定し、若者達に対して、その生徒であるモネが写っているであろうという推測から発展させたので、当然、モネがこの「写真」に写っていると推定すると、最後に残ったこの若者しか考えられません。

モネと思われる写真の若者
ブレているので動いたことがわかるし、
瞳が見えず、瞬きしたのもわかります。
ぶれている部分白線表示
白線内に帽子が動いた軌跡が残っています。

残念なことに、「写真」の若者は頭を動かし、瞬きしたようで、ブレて写っています。従って、モネの若い時の写真との比較での確定は難しいでしょう。それでも、比べてみる価値はあると思います。

写真の若者

「写真」の年代査定より
モネとすれば23歳です。
モネ20歳の肖像写真
モネ20歳の時の肖像写真です。
セザンヌ同様不明。著作権の問題(5)

この二葉の写真を繰り返し見比べていると、鼻と口の辺りがよく似ていると思えてきます。ブレた目はなんともいえませんが、目と眉毛の間隔、眉毛の形は同じに見えます。顎の張具合、全体の輪郭も充分似ていると言えるでしょう。そして、何よりブーダンとの関係、及び、バジールがほぼ確定された段階では、ブレた状況でも以上の類似点からモネであると査定してもよいと思いますが、甘い査定でしょうか?

そして、専門家による骨格等の分析を経たりしなければ、結局、モネは参考でしかないのか? となれば、出所不明な、この「写真」自体も、いくら調査し、資料を集めて検証しても、認証されず、参考の域を出ないのでしょうか?

残念ながら、そうかもしれません。

追記 2006/10/17】
HPを見直していて気付いたのですが、かなり有力な可能性を見つけました。それはカルジャによって写されたこの二十歳のモネの顔を良く見ると、上唇の右端が盛り上がっているのか、傷があるのではないかと推測できる特徴の発見です。単に影と思っていましたが、「写真」のモネと思われる青年の上唇の同じ箇所にも盛り上がりか、傷のような形状が見られます。似た唇の形なのは、そのためではないかと思われます。これはモネの個人的特徴と判断できます。もし、傷とすれば、モネ自身が、子供時代はかなりきかん坊で、どんな規則にも従わず、学校から抜け出し遊びまわっていたと語っているので、そんな傷が出来ても不思議はない気がします。二十歳以降に撮られた肖像写真、描かれた肖像画ではひげで口元が隠くされ、この特徴は見られなくなりましたが、ブレた映像でも、ひげで隠されていない口元は、二十歳のモネの肖像写真と同一人物である証明として、かなり有効と思われ、それなりの査定基準を確保出来たのではないでしょうか。

モネ20歳の肖像写真の上唇写真の若者の上唇







ここで珍しい写真をご紹介します。 (たまたま、セーヌ岸の例の露店古本屋・ブキニストで見つけたもので、6ページほど切り取られていましたが、1945年出版の写真集で著作権に触れず使用できるので掲載します。)



写真家が左手の懐中時計を見ながら、右手にシャッターを降ろすボタンを握っている、撮影風景です。カメラにシャッターが付けられたのは、1871年に臭化ゼラチン乾式写真が発明されてからとあるし、戸外撮影なので、足元に置かれた感光板は乾式と思われ、感度も向上し、露光時間も短縮されたとありますが、懐中時計を見ているところを見ると、まだ、それでも数秒掛かったのでしょうか? 風景や静物なら問題ありませんが、人物では動きを止めるよう指示が出されるのでしょうか? 但し、すべてそれらしく演技しているのかもしれません。
当時の野外撮影風景

そこで、モネ(と思われる若者)のブレを考察すると、彼の帽子で奥のドガ(と思われる若者)の顔が隠れていたので、撮影者が少し頭を引くように言ったとも想像されますが、何れにしろ、のどが渇いていたのでミントかカシスに炭酸水を注ぐのに夢中の若者(この身勝手な行動もモネらしい?)が、写真撮影を無視して、炭酸を注ぎながら頭を動かしたので顔がブレ、不明瞭になりました。同じベンチのミレー(と査定した人物)の隣に座り、緊張感の漲るドガ(と思われる若者)と比べると、6〜7歳の年齢の差が明瞭に見て取れ、この二人の若者の態度は美術界に顔を突っ込んだばかりの若者の傍若さとも思えます。或いはこの若者達は写真に対して単に無知だったのか、それとも、彼等なりに、新しい写真には現実感や臨場感を無意識に求めたのか? もっと単純に、遅れて席に着いた為、既に撮影準備ができていたにもかかわらず、非常にのどが渇いていたので、我慢できず、行動してしまった。しかし、前記のように、撮影者からの注意として、バジールは飲んでいるコップの動きを止めているように思うので、何らかの指示があったように思います。従って、撮影者にはある程度どんな結果になるか分かっていたかも知れません。その結果、モネは撮影者から怒られ、彼ら二人にとって快い話題ではなくなってしまったので、このことを何処にも書き残さなかったと言う推理は如何でしょうか? 何れにしろ、現像しなければモネと思われる若者のブレはわからず、結果を見た撮影者はどう思い、どう判断したか? つまり、この「写真」が、現像された後、若者達に渡されたと思いませんが、彼等を除いた、他の画家の手元へ届いたかどうかの疑問が生じます。コロディオン湿板写真であったらその場でガラスネガが現像され、ある程度ポジ写真の結果が分かり、モネはこっぴどくしかられたかもしれません。注文写真であったなら、撮り直しが行われたとも考えられますが、この「写真」の撮り直しと思える写真が世に出てないところを見ると、撮り直しはなく、注文写真ではなかったと考えた方が理にかなうのではないでしょうか。
著作権の問題(6)
ここで重要な問題、この出所不明な「写真」の確証をどのように得るかるかに突き当たります。つまり、当初、唯一の証明は、写されている誰かが、手紙か日記にこの会合、或いは撮影の事を記録しているのを見つけることではないかと考えましたが、確かに当時、写真撮影が今日のように日常茶飯事ではないと想像され、話題として、手紙や日記に書かれているかもしれないと思いましたが、例えば、バジールの書簡集には、写真に関して、1864年にカルジャに撮影してもらった自分の肖像写真(右はその一部)を両親に送ったらしく、それは知り合ったカルジャに、無料で撮ってもらったもので、父親の返事に、弟も撮影してもらうよう、但し、きちんと料金を支払うよう指示している手紙だけでした。カルジャ撮影のバジール肖像写真
バジール

 彼らにとってかなり特異な出来事と思われる、この撮影のことが話題にならない筈はないと思いましたが、前記の推理から、二人の若者にとって、面白くない思い出になってしまったとしたら、彼等の手紙、日記類に何も書かれなくて当然でしょう。まして、写真を目にしていなければ、尚更話題にしないことでしょう。
 バジールの書簡集で、この「写真」の査定で名の出た画家に関する記載を調べると、アトリエ・グレールで親しくなったモネ以外は、ミレーの名が1867年のパリ万国博覧会の特別展の時、他の画家の名と共に記載されたのと、1869年から画の仲介業を始めた従兄弟のルイに「多分君は知らないだろうミレーは、少ししか描かず、すごく高い。従ってコローが今の時点で買い得と思う」と美術界の状況報告にミレーの名が出ているだけです。(モネが借財を負って逃げ回るようになり、バジールにも無体な手紙を書くようになってからは、ルノワールの名も出るようになり、ピアノを競演し、郷里に一緒に行ったメートルも当然名が出ますが)信じられない事ですが、ブーダンに関してもドガに関しても、カルスに関しても、一度も名前が出てきません。加えると、ピサロ、セザンヌ、シスレーの名も全書簡集を通じて出てこないことは不思議です。ピサロとセザンヌはアカデミー・スイスで、それ程親しくなかったとしても、シスレーとはシャイイ村でモネ、ルノワールと共にパック(復活祭)を過ごしているのにと思います。書簡集に関しては、誰かが手紙を選択している事もあり得、母親の手紙は彼女自身が破棄したと思われ、掲載されていませんが、手紙を書き写した誰かが特定の画家の名を消したとはあまり考えられません。バジールの書簡集に関して言えることは、単に両親の知らない画家達に関しては説明が面倒なので書かなかったと言う事かもしれません。
 大人のブーダンにしても、筆まめで、日記も、手紙も残り、弟との書簡集が刊行されたようですが、その後散逸したともあり、農場サン・シメオンでの(ボードレール、クールベ達との?)晩餐かと思われる記述に、1859年5月9日「オンフルールに行き、彼等が借りたあばら家で親しい仲間達と夕食をした」と日記にありますが、同席した人達の名は記されていません。
 それらの事実に突き当たると、美術史や伝記を通してそれぞれが重要な役割を担った画家たちの会合だと、後世の人間が想像するようには当人達は「重要な出来事」とは心に留めなかったという事ではないかと思いました。緊張感の伴わない二人の若者の態度に、単純に、この撮影が「貴重な出来事」とは誰も思っていないと判断しても、間違いはない様に思います。従って、この会合が文献に残されていない以上、写真のことは語られず、写真に対する認識も、今日のように記録に長くとどまるとの認識もなく、まして、偶然一緒になった、フォンテーヌブローの森を写しに来た写真家による行きあたりの撮影としたら、撮影後には忘れ去られ、記録されず、現像された写真を見てないとすれば、文献に残されなくても当然ではないかと考えられます。まして、一人の若者がブレてしまった画像を写真家が良しとするかを考えると、一応現像はしたものの、その扱いに困り、そのままになってしまったのかもしれません。そうならば、モネもしかられる事はなかったし、直ぐに皆が忘れてしまった出来事であったので、文献にも残らなかった、それが一番事実に近いことかもしれません。
 付け加えるならば、もし何かに書き残されていたとすれば、140年ほどの間には誰かが興味を持ち、探し出しているはずと思われます。手前味噌ですが、もし既に探し出されていたら、これほどの資料が隠されたままであるとは思えず、たとえ公の資料にならなくとも、美術関係の文献のどこかに必ず記録され、美術展を企画する学芸員などはかなり詳細に記録を漁るので、カタログに記載されるのではないかと思うので、やはり、誰もこの「写真」の事は書き残していないと思われます。

以上の推測から、この「写真」の事は、後世に残されて「重要な歴史の証言」になるなどとは誰も思わなかったので、写真家も、被写体になった画家達も直ぐに忘れてしまい、手紙や、日記に、何も書き残さなかったのではないかと、今は思っています。一人の若者がブレているだけでここまで推理を発展させてよいかどうか? ただ、やはりこの「写真」の事が何処にも書かれていない事実は、写真がまだ社会的にそれほど重要視された存在ではなかったと言う事以外に何か事情があったのではないかと推測させるので、ブレているモネと思われる若者に焦点を当て、推理してみました。しかし、そんなこじ付けを考えなくとも、フアルダンの残した銀板写真も、彼らは貴重な記録として残ると言う認識はなかったであろうと思われ、ミレーが母親と一緒に写っている銀板写真(RMNのサイトで写真のタイトルが変更され、第1章に訂正記事を載せました。そちらを参照してください)はフアルダンの手元に残され、ミレーはその存在を忘れてしまったのか?或いは忘れたい思い出だったのか? ミレーは何処にも書き残していないと思われます。 【2013/01/26】場違いですが、タイトル変更に関して、思いついたのでここに追記します。つまりファルダンも自分の残した銀板写真に何も書き残していなかったので、サンシエのミレー伝にミレーを第2子として、長女を第1子と記しているのは、普仏戦争のときに、郷里シェルブールに避難していたミレーをサンシエが尋ねた時に、タイトル変更のあった銀板写真をファルダンに見せられ、ミレーとエミリーと説明を受け、老けて見えるエミリーを姉と勘違いしてしまったので、ミレーを第2子としてしまったのではないかと、想像するのは、自説を押し通そうとする、こだわりでしょうか? 正しくは、ミレーは長子で、エミリーは長女で第2子です。この件も、第1章にサンシエの間違いとして訂正しています。
 自分の問題に置き換えても、誰々と写真を撮りましたと書き残すかと考えると、写真自体が残るので、写真に裏書するとしても、改めてその事を日記などに書き残そうとは思わず、書き残すとすれば、その事実を誰かに知らせたいか、知らせる必要がある場合に限られ、若者の態度からこの会合が「重要である」と言う認識は感じられず、やはり、この「写真」の事は誰も文献に残さないとしても、当然のことと思われます。

○ 今一つ、重要な問題、この「写真」のネガ様式が何であったのか、つまり、当時の写真様式、ダゲレオタイプから2年遅れた1841年にイギリスで発表されたカロタイプ(ネガ、ポジ法)の写真か?1851年に発明されたコロディオン湿式写真か?も、写真の変遷を調べている中で、検討すべき問題である事に気付きました。
 臭化ゼラチン乾板式写真は1871年にならなければ発明されないので、査定年代からすれば、この「写真」のネガ様式ではないと考えてよいでしょう。
 最初、ナダールの肖像写真を参考にしていたので、コロディオン湿式写真だと頭から思い込んでいましたが、戸外撮影の場合、コロディオン湿式写真ではテントの暗室を持ち運んでいたとあり、愚考するに、ガラス板に感光剤を混ぜたコロディオンを塗布するだけならば、それ程厄介とは思いませんが、コロディオン湿式感光板の場合、現像も湿っている内にしなければならない事が一番の難点だったので、それを光を当てずに現像処理をする為に暗室用テントを持ち運ばざるを得ず、戸外ではかなり苦労したのではないかと思います。(写真の歴史の本の中に「持ち運び暗室テント」の図版を見つけたので掲載します。)
 そして、写真の歴史を調べているうちに、ナダール撮影のコロディオン湿式写真のところに書きましたが、ガラス原板ではなく、紙のネガでも充分に鮮明な写真が撮れることがわかりました
現像用テントの解説図版
戸外撮影用現像テント
著作権の問題(7)

 ― 写真感光材は、フランスのダゲ-ル(L.J.M. Daguerre)が有名ですが、ダゲールがダゲレオタイプの感光材を開発した1839年より2年のち、Talbotは、カロタイプ(Calotype、タルボタイプTalbotypeともいう)を発表しました。これは、紙に硝酸銀の溶液を塗布乾燥し、次にヨウ化カリウムの水溶液に入れてヨウ化銀を生成させて乾燥し、さらに硝酸銀、酢酸、没食子酸混合水溶液に浮かばせてのち、乾燥して使用するものです。撮影後、硝酸銀、酢酸、没食子酸の混合液で現像し、臭化カリウム液で定着する。この現像でネガができます。これをもう一度カロタイプ紙にプリントしてポジを作りました。(『感光材料の実際知識』、笹井明、東洋経済新報社、1980年) ―

と言うことで、カロタイプであれば、感光剤を染み込ませ、乾燥させた紙ネガを持ち歩き、撮影した後、紙ネガに光が入らないように再度密閉し、持ち帰って、暗室で現像すればよいわけで、戸外撮影にはこちらの方が何倍も簡単であったと思われます。
 ちなみに、マキシム・デュカンはル・グレイに技術指導を受け、中近東の撮影旅行で使用したのがカロタイプで、文庫本の表紙(下)にあるように、充分鮮明な画像が得られています。
蓮實重彦著「凡庸な芸術家の肖像 マキシム・デュカン論」ちくま学芸文庫
「凡庸な芸術家の肖像 マキシム・デュカン論」
蓮實重彦著 ちくま学芸文庫の表紙、
デュカンが撮影したカロタイプ写真。
  写真の歴史に「カロタイプの露光時間は2〜3分、コロディオン湿式感光板では10秒以下」とあります。これは再考したい問題です。
 そして、Webサイトに 『卵白乳剤ネガには紙とガラスに作られたものがあります。卵白を使って作った印画紙には鶏卵紙があります。これは欧米では1850年代から1890年の半ばまで約50年間、工業生産されていましたので、現存している19世紀の写真プリントの約80%は、この鶏卵紙になります。古い家で黄ばんで画像が薄くなっている写真がある場合には鶏卵紙が多いのです。鶏卵紙は、大変綺麗なセピア色(セピアとは烏賊の墨のこと)をしておりまして、劣化しますと黄色くなり、次第に画像は薄くなります。』(「写真画像の保存」荒井宏子著)とあるのを見つけました。
従って、フランスで発明され、仕上がりがセピア色とあるので、この「写真」の印画紙は、ほぼ間違いなく鶏卵紙と思われます。
    以上をまとめると、
     
  1. コロディオン湿板式写真であった場合、旅籠屋の1室を暗室として使ったか?テントを持ち歩き、傍にテントの暗室があったことになります。  
  2. カロタイプ(ネガ、ポジ法)の写真であった場合、乾燥して使用するため、暗室の問題はありませんが、コロディオン湿板より露光時間が長かった点に注目すると、湿板コロディオンの数秒の露光時間ではこのてのブレが生じ難いと思われ、露光時間の長さがモネと思われる若者の顔のブレに現れていると思われるので、カロタイプの可能性が高くなります。
  3. ポジ写真プリントはセピア色仕上がりの鶏卵紙でほぼ決定。
* モネと思われる若者の顔のブレは、露光時間の長さを推測させるので、湿板コロディオンの数秒の露光時間よりずっと長いカロタイプの写真であった可能性を考えてみましょう。

唯一、カロタイプと決定する事に躊躇があるとすれば、カロタイプのポジ写真で、どの程度の鮮明な画像が得られたかです。紙の繊維の間に塗り込んだヨウ化銀の粒子により画像が紙に定着するので、ゼラチンをガラス面に塗布した、繊維のないものと比べたら、何となく、きめが粗くなる気がしますが、しかし、マキシム・デュカンが撮ってきた写真がカロタイプであったので、充分な解像度があったことがわかり、しかもそれが1850年代とすれば、10年後の60年代には紙ネガの技術革新、及び、印画紙の方での技術革新も進んでいるはずですから、画像の鮮明度はそれ程の問題にならないかとも思えます。ただ露出時間の短縮の問題は残り、感度の問題から、臭化ゼラチン乾式写真に取って代わられたのか。ネガが紙であるため、堅牢度の問題からガラスネガになったのか。画像を定着させた後、ポジ写真を現像する時の素材の光の通過度から、ガラスネガが主流になり、ガラスの割れやすさ、及び、厚みがあり、保管に場所をとることから、紙とガラスの双方の利点を持ったフィルムが開発され、取って代わられたと考えられます。従って、素人判断は、この「写真」は戸外で撮影されているので、テントを持ち運ぶ必要のないカロタイプ、つまり、紙ネガであったのではないかと言う思いに傾いて行きます。しかし、写真を取りたい情熱を度外視して、「テントを運ぶのは大変だから」(後に現像用テントの図版を見ると、それ程大変なものでもなく、情熱があれば問題なく持ち運べるものと思われます。)では確定的な判断にはならないので、国立リシュリュー図書館の「版画と写真」室の写真の専門図書館員に聞く事にしました。
 答えを要約すれば、「国立ルシュリュー図書館に紙ネガも保管されているが、脆いので見せられない。ポジ写真を見て、ネガが、カロタイプか、コロディオンかは粒子の粗さ、画像の鮮明さ等で判断できる。」との事で、やはり、解像度はかなり落ちるようです。ただし、実際、どの程度の差があるかを印刷文献上で見せて貰った限り、それ程はっきりわかりませんでした。古い写真の専門学芸員に改めて聞くという話で帰ってきました。以前、書類を作り、本人が専門家だと名乗る、学芸員に見せ、話しましたが、靴の上から足を掻いているようで、歯痒さが残り(後で考えてみると、フランス語の問題、及び、紹介状を持たず、事前に連絡せずに飛び込みで会ったことが、きちんと対応してもらえなかった原因でしょう)、結論の出ぬまま国立図書館を後にしました。今回も同様で、きちんとした資格を持って、学芸員に会っていれば、現物を傍らに見比べられ、ある程度の結論は出せたかもしれないると思いましたが、この「写真」が、カロタイプか湿板コロディオンか、1855年撮影の写真・乾板コロディオンか(今回の収穫の一つです。しかし、図書館員も文献にあった写真の説明書きで初めて知った写真様式のようで、詳細は知りませんでした)を確定する事はできませんでした。

【追記】(2012/05/11) カロタイプの紙ネガを古写真の店で手にとって見ることができました。まさに年配の人ならば知っている、日光写真の種紙とほぼ同じものでした。薄紙(多分、グラシン紙)に前記のような処理をして写真撮影後現像、定着処理をして、紙ネガとしたものでしょう。A5(148X210ミリ)ぐらいのサイズのネガで教会を写したものでしたが、値段が700ヨーロと言うことで、資料としてだけに購入する金額ではないと思いました。ダゲレオタイプの写真さえ所有していないので、とりあえず、現物を見たと言う報告だけですが、国立図書館では閲覧させてもらえなかったので、ここに記します。

○ 新たに出現した、コロディオン乾式写真を調べると、湿板コロディオンが発表された後、直ぐにいろいろな試みがなされ、タンニン或いは卵白を使用して、ヨードと硝酸銀をコロディオンに加えた感光液をガラス面に乾燥定着させる乾板コロディオンが生まれています。制作に2日かかりますが、乾燥した後、光を遮断し、乾燥状態を保てば、保存は数年可能とのことです。しかし、湿板コロディオンとの違いは、感光性が落ちたとあり、現代のデーターとして(200ミリの焦点レンズで、絞りが8で)露光時間は湿式より20倍必要とあります。ただし、湿板と比べると、野外での撮影にはずっと便利で、旅しての写真撮影のために考案されたようです。(ゴーグル・フランスの「十九世紀の写真」サイトにより入手した知識です。La photographie au XIXeme siecle)となると、ここで新たに、乾板コロディオン、ガラスネガの可能性が浮かび上がってきました。感光に必要な時間を秒に換算した場合、湿式が10秒以下の露光時間とすると、乾式は3分30秒以下と単純計算になりますが(インスタントラーメンが3分、かなり長いと思います)、1860年代ならば、それなりに改良され、晴天の戸外での初夏の太陽光線の下なら、1分以下で充分感光したと想像してはいけないでしょうか? しかし、参考に掲載した、1871年以降の臭化ゼラチン乾式写真の撮影風景にも懐中時計を見ていることから、1秒〜2秒に短縮されたわけではないと思え、正確な露光時間は記録されていないのでしょうか? 各写真家の経験なのか? 感光板も手作りとすれば、感光度も違い、露光時間も違うのは当然の事かもしれず、露光時間の平均化、一般化ができないのかもしれません。

 結局確定はできませんが、

 1.戸外での撮影である事。
 2.一人の若者の顔がぶれている事。
 3.画像の解像度は決して低くはない事。→
テーブルにコップが映っている
テーブルにコップが映っているのがわかるほど鮮明。

以上からすると、乾板コロディオンである可能性が高くなりました。しかし、新たな疑問は、彼等を撮影した写真はこれ1枚だったかどうかです。例えば、湿式コロディオンであれば、直ぐに現像しなければならないので、結果が直ぐにわかり、失敗だった場合、取り直しをするであろうと思われ、人物の肖像写真においては、ほとんどブレなどによる失敗作は見かけません。失敗はあったと思われますが、それらは多分破棄され、後にガラス板は再利用されたであろうと思われます。もし、写真撮影が依頼されたものとすると、きちんとした画像を渡さなければならず、やり直したと思われます。直ぐに結果がわからない、乾式コロディオンであった場合、現像による失敗も含めて、1回だけでなく、予備の撮影、或いは、露光時間を変えた撮影をしている可能性が考えられます。その場合、現像した後、若者がブレたこの「写真」のネガは破棄され、ポジ写真は存在しないと思われ、残っている事から、偶然に居合わせた写真家が、話の都合で、その気になったので、撮影した可能性を示唆し、加えてブレた画像の存在は、ネガはその場で現像されなかったのか、湿式コロディオンでネガの現像はされたけれど、鶏卵紙への現像まで、現場でしなかったため、モネの顔がぶれたことがわからず、依頼されたものではなかったので再撮影はなかったと考え、彼らはこの写真を目にしていない可能性も充分考えられます。ただし、読み齧りの十九世紀の写真の知識で、素人がそこまで推定してもよいかどうか、ここまでにしておきます。

テーブルの上のグラスの数を数えると、一つ多く、撮影者は、既に彼等と親しい間柄だったのかもしれません。或いは通りがかりに合流した、フォンテーヌブローの森を撮影に来た若い写真家だったのか? そして、持ち帰って、鶏卵紙に現像したこの「写真」を彼等の元に届けたか、失敗作として見せなかったか? 前記の疑問になるわけです。シェルブールからの繋がりがあるとはいえ、ファルダンがミレーの肖像写真を残している事を考えると、ファンテーヌブローの森に機材を持って撮影に来る写真家が、ミレーをはじめとする彼ら画家を一人も知らないわけがないのではないかと思いましたが、万が一知らなかったとしても、すぐに画家であることはわかったと思い、写真家は記憶に残したと思います。ただし、だからと言って現像された写真を、彼らの元に届けたかは、やはり、疑問です。何れにしろ、彼等の元に届かなかったら、この「写真」の事は書き残されない可能性が高くなり、撮影者の名も出ず、出所が不明な理由にもなると思われます。重ねて自問自答ですが、だとしたら、どうして、現存するのか? もし、撮影者が若く、その後の画家達の活躍を知る事ができたら、写真に残された画像にどんな意味があり、その美術史的価値も認識でき、「貴重な画像」として保存されたと思われますが、彼等が活躍する前に撮影者が没し、もし、継承者がいた場合、つまり、ナダールのように息子が跡を継いだ場合、口伝など、一般に想像する以上に正確に伝わって行くので、フォンテーヌブローで当時の画家たちを写した写真として、「それなりに貴重な画像」としてきちんと保存され、最終的に出所確かな「貴重な資料」になったでしょう。しかし、継承者がいなかった場合、つまり伝承が絶えた場合、この写真を相続した人は、保存された写真がそれ程貴重な記録とも思わず、誰も興味を持たず、忘れ去られ、最終的に誰が写っているのかまったくわからなくなり、写真家の他の写真と一緒に十九世紀に撮られた古い写真として、業者の手に渡り、骨董市の店頭に並んでしまう結果になったのではないかと推理しますが、事実はどんなものだったのでしょう? 

それとも、事実は、この査定はまったく荒唐無稽なものと一笑に付し、まったく別の人達の集まりだと、このホーム・ページを読んでこられて思われますか? まだ疑問をもたれる部分があるでしょうか? 疑問がありましたら、どんどんメールをください。できる限りお答えいたします。確かに、この「写真」が今まで説明してきたようなものとすると、かなり「貴重な画像」と思えますので、信じ難いと思われる方が居られても不思議ではありません。それは否定いたしませんが、調べれば調べるほど、査定に間違いがないと思えてくるので、ご不審な点がありましたら、どしどしお問い合わせください。よろしくお願いいたします。




まだ一人査定が終わっていない人物がいますので、まだしばらくお付き合いください。





○ ひげを重視して、ジゴーを選び、ナダールの写真以外の肖像を探しました。その結果思わぬものが見つかりました。銅版画の余白に鉛筆で記された、多分ジゴーのオリジナル自画像版画です。

 先ず、版画。
ジャン・ジゴー銅版自画像

 次に、鉛筆書き込み。

銅版画の下に鉛筆で書き込まれた文字
文字が入る前の試し刷り。
彼自身のクロッキーを基にした画家ジャン・ジゴー。
1809年ブザンソン生まれ、1896年パリ没。

序に、ジゴーのペン画「詩」の写真製版凹版画(ヘリオグラヴュール)も、

ジゴーのペン画の写真製版凹版画
このペン画を見ると、前掲載の銅版画はジゴー自身が彫ったと思われますが、未確認です。

次に「写真」の人物との比較。

版画のジゴーの顔
ジゴー(銅版画)
写真の人物
「写真」の人物

どうも目の大きさが気になります。それに泥鰌というより、なまずか鯉のひげのような生やし方を、たまたまこの時、短くし、横に伸ばしたようには思えないし、下の顎先のひげの生え方も違うように見え、基本的なひげの形が違うし、顎の張り方も違うようで、こう比較するとまるで似ていません。ジゴーの最晩年の油彩肖像画を見ると、この版画に見られるひげの形は最後まで変えていないようで、トレイドマーク(自己標識)にしていたようです。前頁のトレのひげが26年間変わらない事に疑問を提示しましたが、ジゴーのひげへのこだわりを見るとミレーのように外見にかなり無頓着な人はいざ知らず、ひげもかなり決め手になる事がわかります。従って、ジゴーは該当しなさそうです。別に人物を探さなければならなくなりました。略伝によれば、ジゴーはパリでなく、ブザンソンで亡くなり、ブザンソン市に彼のコレクションを遺贈しています。

一度つまずくと、中々難しいものです。該当者なしとして、査定を放棄しようかとも考えてしまいます。査定済みの他の画家達からすると、彼等と交際があるこのひげの人物もそれなりに当時活動していたと思えるので、何とか該当者を見つけたいと思いますが、もし、他に写真家によって肖像写真が残されていないと、美術史の上から見たら、重要と思えるこの会合に付いて書かれたものが残されていないようなので、もう一人の参加者が誰なのかを、肖像写真なしで突き止めるのは不可能でしょう。 当時の事情をかなり調べたので、何とか頑張りたいと思います。ご期待ください。



今回は著作権に関して大いに問題があるように思い、問題ある参考画像は番号を振りましたが、著作権及び複製権の有無、もし使用した画像に著作権があるならその所有者を調べ許可を頂くより、営利目的ではない、このホームページに、権利所有者の方のご理解を乞う方向で許可を頂きたいと思いますが、どんなものでしょうか? 問題(4)のセザンヌの若い肖像写真は友達に貸していた1936年出版のセザンヌの画集に掲載されたものであるのがわかりました。(5)の20歳のモネに関しては、いくつかの文献があり、どの文献から撮ったかわかりません。全部に許可を申請するのも変ですし、他にも権利のある出版社があったとしたら、既に許可を受けましたと連絡すればそれで済むのか?全ての権利者に許可を受けなければならないのか?公共性を持った画像に関しては著作権の云々は難しいのではないかとも考え、しかし、権利がはっきりし、削除を求められれば速やかに応じますのでご連絡ください。(1)(2)に関しては画集から、(3)は明記しました。《著作権の切れた絵画の写真の場合、 ただそのまま平たく写した写真は著作物ではなく、複製にあたり、したがって撮影者に使用の許可をえる必要はないとのこと、判例があると書いてありました。(古美術の著作権より)》従って、(1)と(2)に関してはできる限りの配慮をしたつもりですのでご理解いただきたいと思います。(3)と(6)に関しては許可の手紙を書きます。【追記 2006/10/17】写真が掲載されていた本の出版社あてに許可申請の手紙を送りましたが、あて先不明で戻ってきました。こういう場合、著作権者を探して許可を求めなければ掲載してはいけないのでしょうか。近年の出版物なので、そうした方が良いと思いますが、とりあえず、この画像に関しては「1956年12月31日までに製作された写真は著作権が失効しています」ということで掲載させて頂くことにしました。(7)に関しては古い版画なので著作権が切れているのと同時に、当時もドキュメント図版と思われので、転載させていただきます。以上の説明で不充分な場合、ご連絡いただければ、速やかに対処いたします。
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著作権について 著作権に関しては充分配慮していますが、万が一著作権に抵触する場合、著作権者のご要望があれば即座に削除いたしますのでメールにてお知らせください。このサイトは、偶然見つけた写真に写っている人物を如何に査定したかを物語ったもので、どうしても画像による説明が必要になります。営利を目的に画像を使用しているわけではない点を著作権者様にご理解をいただき、掲載許可をいただけたら幸いです。また、読者の皆様におかれましては、著作権に充分のご配慮をいただき、商用利用等、不正な引用はご遠慮くださいますよう、よろしくお願いいたします。

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