写真:ミレーと6人の画家たち
ミレーを中心に、他に6人の現役及び初心の画家たちが写っている写真を物語る


8.写真史に寄り道、最後の人物の査定完了



まず、最近、地方ののみの市で手に入れたものを掲載します。


薄い、小さな鉄板、35×40mmに焼き付けられた少年の肖像です。金属板の上に定着された画像なので、ダゲレオタイプの写真と思われますが、定かではありません。過渡期に現れた、簡易ダゲレオタイプ写真ではないかと想像しますが、知識がないので、ご存知の方はお教え下さい。

ペンを置いて大きさを示す
ほぼ原寸です。

小さな鉄板に焼き付けられたイメージの拡大
小さな鉄板に焼き付けられたイメージ拡大
その裏
その裏

ダゲレオタイプ・銀板写真は10年ほど(別の解説で計算すると18年です。10年〜20年位と考えればよいでしょう。)の寿命だったとか。その間にそれなりに実用化し、ダゲレオタイプの基本原理は同じですが、銀板の質がもっと安価なものに変わったりしたのではないかと想像しました。この鉄片の角が、きれいに直角に切れていない事から、自分で必要なサイズに切ることもできたのではないでしょうか。或いは、写真機材を売る店で、銀メッキした鉄板を切って売っていたのか? ダゲレオタイプの写真機の詳細な発展がわからないので、今回手に入れた小さいサイズのダゲレオタイプ風の写真から想像したのですが、この小さな鉄片に定着された画像、写真は何なのか知りたいものです。銅板に銀メッキは聞きますが、鉄はクロームメッキで、鉄板に銀メッキはあまり聞かないので、問題があるのかもしれません。となると、薄い銅板でもいいわけですから、薄い鉄板を使っている理由はべつにあり、ダゲレオタイプとは違うのかもしれません。

パリの古本市で同じものを見つけ、何なのか聞いたところ、フェロタイプ(ferrotype)の写真とのことでした。簡単に言うとポラロイド写真の最初のものだとか、大道でお金を取って肖像写真を撮っていたということです。そのほか、白いネガと黒いネガとか、いろいろ説明してくれましたが、良く分からず、後で、インターネットの「十九世紀の写真の歴史」サイトで調べると確かにフェロタイプは記載されていました。写真の経験的知識がないので、観念的な受け売りの説明になりますが、ダゲレオタイプ(1839年から1857年頃まで使用される)が発明された後、アンブロタイプ(1851年から1863年頃まで使用される。1852年、54年の発明ともあります)がイギリスで発明され、コロディオン乳剤を使い、感光剤・硝酸銀を沁み込ませ、写真機を通してガラス面に光を当て、画像として銀の粒子を還元させ、現像液でそれを強化し、感光していない部分を定着液で洗い流し、画像をガラス面に定着させたものと解説されています。露出不足の状態で、銀白色から灰色に定着させ、後ろに黒い紙などを置き画像として浮かび上がらせ、ポジ写真として画像を見るものと理解しました(白いネガ、黒いネガとはこの部分に関する説明と思います。既にカロタイプ・紙ネガが発明されていたので、コロディオン乳剤を塗ったガラス面に定着した画像をネガとして、ポジ画像を紙に焼き付ける、ネガ-ポジ法に移行し、それが主流になり、このアンブロタイプは直ぐに廃れて行きます)。ほぼ同じ頃フェロタイプ(1852年から1938年頃まで使用される。1856年に発明と言う文献もあります)がフランスで発明され、薄い鉄板(トタン、錫、亜鉛板、英語ではTintype)に黒粉を混ぜたニス(黒ラッカー、黒エナメル塗料或いはチョコレイト色)を塗り、その上にコロディオン乳剤膜をつくり感光剤を沁み込ませて撮影します。現像すると、黒地に銀粒子が銀白色から灰色の階調で定着され、それ程鮮明ではなくとも充分確認できるポジ画像が浮かび上がり、上に掲載の画像が得られるわけです。フェロタイプは使用法が簡単で、特に廉価であると但し書きがあり、一点だけのポジ写真で、アメリカで普及したとあります。これら(ダゲレオタイプとフェロタイプの2タイプ)の写真法はイメージが反転したままである事を注意する必要がありますが、普段自分の顔は鏡でしか見ることができず、違和感はなかったのではないでしょうか。特にフランスでは、戸外での肖像写真屋としての需要だけ残り、美術を万国博覧会の目玉にする国は反転した画像を是とせず、写真家はネガ-ポジ法を選び、より鮮明な画像を求めて多くの写真家を輩出したのではないかと想像しました。「写真の歴史」によれば、1839年にフランス科学アカデミーでダゲレオタイプの写真技術を国が発明者ダゲールとニエプスの息子に年金を支払う条件で買取り、公表され、誰でも試みる事ができ、それが写真の発展の促進に果たした意義は大きかったでしょう。しかし、残された19世紀の写真を調べた文献によれば、当時の一般常識を超えた写真の存在も確認され、その後、各写真家が独自に開発した感光剤の開発、修整技術などは、必ずしも公表されたわけではなく、感光時間もまちまちで、はっきりした統計記録資料はないと思われます。
 読み齧りの知識の再確認ですが、ハロゲン化銀(銀と臭素、塩素、ヨウ素の化合物)の結晶の、光の当たった部分の銀粒子が元に戻る(感光性を持っている)原理を利用し、レンズを通した画像が銀粒子として感光面に浮かび上がり、その銀粒子を補強、定着させ、定着した画像をそのまま見えるようにしたのが、初期の写真法で、画像が上下左右反転したまま(アンブロタイプに関しては、ガラスの透明性を考えると、画像が定着したガラス面を裏にして、黒い紙を張って見るならば、反転画像を反転させて見るので正転写になります。画像の正、反転に関して特に説明がなく、確かな事がわかりませんでしたが、現物を見、コロディオンガラスネガも入手できたので、アンブロタイプは画像が反転しない事が分かりました)銀板(銀メッキ銅板)、薄い鉄板(錫、亜鉛板)に画像が定着しているわけです。銀板写真は銀色に光る面を背景に画像が浮かび上がり、見る角度でかなり鮮明ですが、フェロタイプは黒白のはっきりした画像ではなく、バックの黒と銀白色、灰色の諧調で全体に暗い画像で、必ずしも、銀板写真より画像が鮮明とはいえませんが、1938年まで使われたとあるのは、廉価であるのと現像も簡単な即時性のため、戸外の観光地などでの記念撮影用に生き延びたのではないかと推測しました。前記反転画像をネガとして感光紙に焼付けポジ画像を得る写真法をネガ-ポジ法と呼び、今日のフイルムを使用した写真の原理です。従って、きちんとした肖像写真がほしい人は写真スタジオまで足を運び、このネガ-ポジ法で、それなりのお金を払って撮って貰ったのでしょう(ナポレオン三世お抱えの写真家ディズデリは1854年名刺判肖像写真の特許を申請し、6×9cmの名刺版の写真を12枚で20フランで提供することで、中産階級に写真の需要を拡げた−「写真と社会」ジゼル・フロイント著より−とあります。つまり名刺版写真は一枚だけでは注文できなかったでしょうし、当時1枚の肖像写真は50フランから100フラン−同前−したとか、フェロタイプはそれよりずっとずっと安かったと推測できます。従って、庶民の生活の中に入り込んだのが、フェロタイプではないかと思います。でなければ1938年まで使われ続けないでしょう。1938年とは第二次世界大戦の始まる前までと言う意味でしょうか? 戦争により、飛行機と共に写真技術も飛躍的に進歩したのでしょうか? どうもアメリカで発明されたポラロイド写真が実用化し、戸外の肖像写真屋もポラロイド写真に替わったからのようです)。写真専門の古本屋の主人の説明も、その事を強調して、ポラロイド写真の最初のものと簡単に説明したのだと思います。しかし、イギリスで出版された本のフランス語翻訳本に掲載されたフェロタイプの写真は左右反転していません。非常に興味深いので、スキャナーで取り、掲載します。W.COLDER. PHOTOGRAPHERと書かれた文字が反転していませんが、これはあらかじめ反転した形で書いておけばよい問題ですが、白いハンカチが出ている子供の服の胸ポケットが左に付いています。この2点から、このイメージは反転していないと思われます。と言う事は、この写真がフェロタイプではないと思われますが、いかがでしょうか? 最初のナダール撮影のミレーの肖像写真の耳の考証で、フアルダンの銀板写真と比較をし、後で、画像が反転している事に気付き、比較検討が無効になりましたが、専門家の編集した本にも間違いはあるようです。ついでに、「巡回フェロタイプ写真屋」と解説の付く写真を掲載しておきます。「写真の誕生」1976年刊に掲載されていたものです。画像の著作権はコダック美術館にあると、最後のページに記載されていました。コダック美術館を調べると既に存在せず、かろうじて、ヴァンセンヌに1960年はじめに設立された「写真歴史」美術館が多分それと思われます。そして、1983年コダック・パテ財団はすべてをオルセー美術館に寄贈したとあります。RMNのサイトでフェロタイプで探し81点の写真を見ましたが、洋服の左前で調べると、画像は反転していません。一体どうした事でしょう。当然、この本に掲載の画像は見当たりませんでした。今深く考えています。下手な考え休むに似たりと言いますが、フェロタイプは、レンズを通した画像を感光面に焼き付けて、直接ポジ写真を得、原理的にダゲレオタイプと同じで、画像は反転している筈ですが、「写真の誕生」の掲載フェロタイプ写真も、RMNの写真サイトのフェロタイプ写真も画像が反転していません。日本の写真の歴史に、着物は簡単に変更でき、刀も右にも左にも差せますから、銀板写真で左右を反対にして撮影していたと書かれているのを読みましたが、洋服では写真を撮るためにわざわざ右前の服を新調しなければならず、そこまでするとはあまり考えられません。果たして、各自が写真撮影の為に普段着られない服を新調したのでしょうか?そうでないとすると反転していないフェロタイプの写真画像をどう解釈したら良いのでしょうか?頭を抱えています。「昭和31年(1956年)12月31日迄に製作された写真は、著作権が失効して います。 →写真を複製して使用する場合、著作者の許諾を必要としません。」とある、写真の著作権法を信じて、掲載する事にしました。しかし、所有権などの権利が生じるなどありましたら、ご連絡いただければ速やかに対処いたします。営利目的ではないので、寛容な考慮を頂き、許可をいただければ幸いです。【追記】最初のフェロタイプ、少年の画像を調べました。運良く上着が右前になっているのが確認でき、画像が反転していることの確証を得ました。フェロタイプ写真は間違いなく、画像は反転しています。

巡回フェロタイプ写真屋
巡回フェロタイプ写真屋
フェロタイプ写真
フェロタイプ写真:浜辺の家族
画像が反転していないようで、
フェロタイプとは思えません。
所有フェロタイプ写真のイメージを鮮明化
入手したフェロタイプを検証。
上着が右前になっているので、
画像は反転しています。  

ネガ-ポジ法に関して : カロタイプは薄いパラフィン紙に感光剤を沁み込ませ、イメージを定着させネガ画像をつくり、紙に反転させた画像を感光させポジ画像をつり、現在の写真と同じ原理で画像を得ます。感光紙(印画紙)の開発も同時に行われ、卵白乳剤による鶏卵紙が主流になったとあります。コロディオン湿板写真もガラス面の画像をネガとし、紙にポジ画像を得る場合、この二つの写真法をネガ-ポジ法と呼び、コロディオン乳剤が卵白乳剤、ゼラチン乳剤になり、1871年臭化銀ゼラチン乾板が開発され、乾板の普及により一般の人にも写真撮影が容易になり、現像専門の写真店も出現したのではないでしょうか。その後、ガラスがフィルムになり感光剤も、より感光度の高いもの、三原色別に感光できるものも開発されカラー写真が生まれ、デジタル法が出現するまでの写真はこのネガ-ポジ法が主流で、反転画像ではなく、見たままの画像が得られ、残されているほとんどの十九世紀の写真はこのネガ-ポジ法と思われます。余程良く画像を見ないと、現物でない写真のイメージだけでは時として反転画像である事を判定できない場合も生じ、前記のような間違いも生じるようです。ふっと思いましたが、著者は写真美術館の学芸員ですから、わざわざフェロタイプの写真とタイトルを付ける限り、間違えはあまり考えられず、印刷の段階で、版下をつくる人が気を利かして、渡された写真を「ネガを反対にして現像した間違い写真」と勝手に思い、画像を反転させてしまった可能性も充分考えられます。そして、校正者もその事に気付かなかったのかもしれません。それ程ネガ-ポジ法の写真が常識化しているということでしょうか。

息抜きの話題として、面白い写真を入手したと思いましたが、この小さな鉄片にもそれなりの写真の歴史が秘められていたことを知りました。単純にダゲレオタイプの一種という推測は間違いでしたが、写真史上に明記された写真であり、あまりに小さく、薄い鉄板がきちんと直角に切られていない部分に注目し、簡易化されたと考えたのは正解だったと思います。このフェロタイプが、巡回フェロタイプ写真屋により、戸外で写真撮影ができ、わざわざ写真スタジオに通うほどの関心のない一般の人々にも、お祭りや観光地、避暑地などで、写真に対する関心を喚起し、その後の写真の発展に何らかの貢献をしたのではないでしょうか? それにしては、ほとんど問題にされていないようですが、やはり反転画像である事に問題があったのでしょうか? 当時の著名人の肖像写真などには使われなかったフェロタイプですが、庶民の顔が多く写され(普通、自分の顔は鏡に写してしか見られないので、自分の顔を反転画像で確認するのに問題はなかった訳です)、貴重な資料になると思われますが、残されていないのでしょうか? 日本には持ち込まれなかったのでしょうか? 専門家のご意見をお聞きしたいところです。
 小さなフェロタイプの写真から思わぬ勉強をすることになりました。面白い分野かもしれません。付け焼刃の写真の黎明期の知識で、我流に咀嚼したつもりですが、間違った部分があったら指摘してください。宜しくお願いいたします。また、フェロタイプの画像反転に関しての明快な解釈をお待ちします。校正を重ねている内に、RMNの画像サイトのデジタル画像は特に左右反転は容易にできるので、サイト制作者が間違いと思い、反転して掲載したと、印刷の版下制作者と同様な過ちを犯したのではないかと考えるようになりましたが、それにしても解せない話で、誰もチェックしないのでしょうか? 或いは、フェロタイプ用写真機として、反転しない画像を得る写真機が作られていたのか? それなりに権威のある資料に同じ過ちがあるのも考えられず、原理的にフェロタイプは反転画像である事は間違いないと思いますが、大いに疑問を感じています。

(右の画像説明)反転が明瞭なフェロタイプの資料を入手したので掲載します。
その上、普通紙の台紙に写真を貼り、上にセロハンを被せてあり、撮影した後、
顧客にどの様に渡したかわかる、珍しい資料だと思います。
新たなフェロタイプの資料

フェロタイプの画像が反転しているかどうかに関して、写真美術館学芸員の責任編集の本に掲載されたフェロタイプ写真と写真専門のWebサイトに掲載のフェロタイプ写真の画像が反転していない事と、画像が反転しないネガ−ポジ法写真が普及したずっと後の1938年まで使用された事実を考えると、フェロタイプ用写真機の改良で、反転画像を再び反転させて画像を定着させたので、フェロタイプの写真画像もある時期から反転したものではなくなったのではないかと今は考えています。つまり、素人考えですが、レンズを通して反転した映像を、双眼鏡はプリズムを使って、二眼レフは鏡を使って元に戻すので、きちんとした映像が見えるわけです。その原理で、鏡かプリズムを通す事で画像を再度左右上下反転させ、それを感光面に定着させる方法を考案すればよいので、高感度の感光剤が開発され、フェロタイプ用写真機を改良すれば正転写画像を得る事はそれ程難しくはないと考えました。しかし、原理的に初期のフェロタイプ写真は間違いなく反転画像でありました。ダゲレオタイプの写真が直ぐに廃れたのは、複製ができない(唯一のポジ写真)、技術的に煩雑である(銀板を良く磨き上げなければならないとか)と共に、画像が反転していた事が考えられます。つまるところ、ダゲレオタイプの欠点を補い、且つ、廉価であったので、1938年まで存続できたと考えると、やはり、画像は反転していなかったと考えた方が理にかなっているでしょう。但し、今までのところフェロタイプの映像が正転していると書いてある資料を見つけていません。真実は何処?専門家のご意見を承りたく思います。(追記:2008・11・19 《写真の歴史入門 第1部「誕生」三井圭司 東京都写真美術館監修 新潮社》の105ページに「余談になるが、ペリーとともに日本を訪れたブラウンが持参したダゲレオタイプは、普通は左右が逆転した像になる。鏡を介して反転させるレンズも開発されていたが、ブラウンはそれを持参していなかったらしい。」とあるのを見付けました。具体的にどんなものか判りませんが、反転画像を修正する方法はこの記述によると、ブラウンの写真制作年代の1854年以前に開発されていたことになります。しかし、ブラウンも持参しなかったごとく、著者も余談と前置きするごとく、像が反転しているかどうかに人はあまり関心が無かったようです。画像反転問題はこれにて一件落着といたします。) 



それでは、査定物語の続きを。




・ この「写真」がどんな運命を辿ってきたか、これからどんな運命を辿るかは人に任せ、全員の査定を終了しなければ、使命が果たせません。最後に残った一人、トレと思った人物の再査定を続けたいと思います。




この間に、探しあぐね、空虚になった頭を抱えた


幾ばくかの時間が横たわっています。




何とか、カルジャの画家の肖像写真コレクションの中から二人選び出しました。先ず見てもらいます。

画家ウーヴリエ1806年生まれ
ピエール=ジュスタン・ウーヴリエ
1806-1879
© Photo RMN
画家クローディウス1804年生まれ
クローディウス・ジャッカン(ジャッカン・クロード)
1804-1878
© Photo RMN
トレと間違えた写真の人物全身写真
「写真」の人物の全身像

 : 前記の問題があるので、画像で確認しましたが、カルジャの写真もこの「写真」もネガ-ポジ法の写真で、画像は反転していません。それは単純に着物のボタンの付き方を確認すれば充分でしょう。カルジャとナダールは肖像写真に関して、コロディオン湿板を使い、写真スタジオで撮影し、ネガ-ポジ法を採用していることが資料で確認できます。

この度は身体つきも似ているので、唯一、耳が決め手になるかもしれません。ピエール=ジュスタン・ウーヴリエの方が「写真」の人物の耳に近い気がします。ジャッカンの耳はかなり下についているようです。また顎の張り方も、ウーヴリエの方が似ています。顔だけの比較を改めて試みます。

ウーヴリエの顔部分
ウーヴリエ
© Photo RMN
写真の人物の顔部分
「写真」の人物
.
ジャッカンの顔部分
ジャッカン
© Photo RMN

特に画像だけで「写真」の人物がウーヴリエである決め手は今のところありません。余分なものを取り除いた画像で比べてみます。

ウーヴリエ顔ぼかし
ウーヴリエ
© Photo RMN
写真の人物顔ぼかし
「写真」の人物
.
ジャッカン顔ぼかし
ジャッカン
© Photo RMN


ウーヴリエと「写真」の人物を細かく検証すると、鼻の形、鼻から口へかけての雰囲気、耳の形、目の大きさ、ひげの形など問題はないようです。特に、口ひげの雰囲気がかなり似ています。また、ミレー同様に、カルジャの写真は眉を寄せて、しかめっ面をしているように見え、「写真」の人物はリラックスしている雰囲気で、表情の違いが見られ、その点を考慮するとかなり似ていると言えそうです。「写真」の人物とジャッカンを比較すると、耳の位置だけではなく、眉毛の形も違い、目の位置を基準にして、鼻の付け根、つまり、鼻の隆起の始まりの位置を比較すると明らかに違います。加えて、ひげも若干違うように思います。従って、ジャッカンではないと思われます。後は文献による裏付けとして、査定済みの彼等と行動を共にしている可能性を見い出せれば、査定を確定できるでしょう。


○ まず、クロード・ジャッカン(通称クローディウス)について調べます。

彼は1804年12月16日にリヨンで生まれ、リヨンの美術学校で学び、1821年17歳で絵画部門の1等賞を受けています。1822年(18歳)からリヨンのサロン展に出品し、パリのサロン展には1824年から出品しました。1834年にルイ・フィリップ市民王により画が買い上げられ、評価が高まり、ヴェルサイユ美術館の為に7点の画の注文を公式に受けます。1836年にパリに居を移し、1839年(35歳)にレジョン・ドヌール章を受勲しています。素晴らしい成功を収めましたが、(具体的な説明がなく)金銭的な堕落に陥り、忘れ去られ、邸宅を借金の返済に売り払い、ブーローニュ・シュール・メール(北フランス、カレー市から34キロ海岸線を南に下った所)に1852年から1857年に掛けて移り住んだと言う事です。その後、パリの教会に画を描いているので、パリに戻ったと思われますが、詳細は記載されていません。ジャッカンである可能性の方が高ければ、パリに戻ったと思われる時期を詳細に検討する必要がありますが、官展系のロマン派として評価されていたようで、写真の既に査定された画家とのつながりは見えないので、取り敢えず彼の略歴はこの程度で、唯一、ボードレールが1848年のサロン展評で多少意地悪く、彼は「いつもドラロッシュ(ミレーのパリ美術学校の先生)を作り(俗として「盗む、くすねる」が訳語にあり、意地悪く批評しているとあるので、たぶん正確な訳は模倣しているという意味でしょう)、質は20番目」と書いていることを付け加えておきます。ドラロッシュとミレーの師弟関係は直接のものですが、ジャッカンはリヨンで学び、ロマン派に位置づけられ、ドラロッシュの亜流とみられ、ドラロッシュの名が出ますが直接的な関係はなく、当然ミレーとの関係もなく、ドラロッシュとなれば、ロマン派系でも、ドラクロワやコロー、ルソーではなく、つまりこの「写真」に査定されている画家の先達とは相対する系列に属しているので、文献上からもジャッカンである可能性は少ないでしょう。 −ジャッカンの略伝はベネジット美術家辞典による− 尚、http://www.photo.rmn.fr で彼の画を見たい場合、JACQUANDと名前を打ち込んでください。12点の画が見られます。


○ ピエール=ジュスタン・ウーヴリエの略歴を調べます。

ウーヴリエの略伝をべネジィット美術家事典で調べると、1806年1月19日か5月9日にパリで生まれるとあり、出生日が不明確なのが気になります。1879年10月23日にルーアンで没しています。歴史画、風俗画、戦闘画、肖像画、風景画、山岳風景画、海景画、水彩画、石版画とかなり広い分野をこなす、器用な画家のようです。略歴の4倍ほどの画の公売価格が記載されているのも驚きです。(アメリカの画廊のサイトに略伝がベネジィット美術家事典より少しだけ詳しく載っていましたが、これだけで、ルソー同様、フランスで評価されないウーヴリエの画はアメリカへ多く渡ってしまったのかもしれないと想像してしまってよいかどうかわかりません。没年が1880年ともあるようです。ただ、パリで生まれ、ルーアンに没したのは確実だとあります。)
 ウーヴリエは第一次ナポレオン帝制時代に産声を上げ、王政復古期の王立美術学校で、ダヴィッドの教えを受けたアベル・ド・ピュジョルに師事し、王政復古の末期、21歳の時にドル市(ジュラ県、ディジョンとブザンソンの間)から王の全身像を頼まれて描いた(ウーヴリエ作「シャルル十世の肖像画」現在ドル美術館蔵)とあるので、官学派の正当な公認肖像画家として世に出ましたが、七月革命が起き、王政復古からルイ・フィリップ市民王による七月王制(立憲君主制)に変わり、1830年のルクサンブール宮殿で開催された展覧会で水彩画「モレの眺望」で風景画家として再出発しました。ミレーと時代が少しずれ、その上、パリ出身の違いはありますが、肖像画家として出発した点は同じです。というより、革命後のサロン展で肖像画が増え(民主革命後、個の主張が一般化したためか?)、それが七月王制後に急激に増えたとのこと、元々画家の生業であったでしょうが、需要が増え、彼らが最初に肖像画家として世に出たのはごく普通の事だったのでしょう(写真が普及した後は写真家がこの分野を受け持ったわけです)。ウーヴリエは翌1831年に初めてサロン展に出品。風俗と風景の分野で2等のメダルを受賞、1832年にはルイ・フィリップ王に後援されたユエと一緒にコンピエーニュの森で画を描いています。これ以後1843年三点の油彩、一点の水彩に対して1等のメダルが与えられ、1855年ナポレオン三世の帝制のサロン展でも3等のメダルを受賞し、第三共和制になった1873年までサロン展に定期的に数多く出品したとのことです。サロン展でいろいろスキャンダルになったミレーとこのあたりはだいぶ違うようですが、水彩でその場で写生し、アトリエで油彩に仕上げていたとあリ、鉛筆などのデッサンや水彩で野外での写生を繰り返し習作する事で技術を磨いたと解説されています。ルソーやミレー同様に、ウーヴリエが戸外でデッサンをし、それを基に、油彩画をアトリエで仕上げたのは、今日と違い、当時まだ油彩絵の具を持ち歩くのが難しく、戸外での油彩制作は習慣にはなっていなかったからといえます。次世代の少し若い画家達は、既に、油彩絵の具を持ち歩くいろいろな試みを個人的にしていた事が文献に見られますが、実際、油彩による戸外制作が活発になるのは、チューブ絵の具の開発後です。(1840年、鉛と錫の合金で作られたチューブをコルク栓で密閉した油彩絵の具が開発されたという事ですが、1865年ルフラン商店が、現在と同じ形の、ネジ蓋の錫製チューブを発明、特許申請をしています。まさか、1865年に、モネがシャイイ村で、戸外の大画面制作を始めたのは、この戸外で使用が容易になった絵の具の開発も要因の一つなのでしょうか? 考慮に値するかもしれません。
 ウーヴリエは40年間に150点の画をサロンに出品したと記載があります。サロン展のカタログを調べたのでしょうか? 1854年(48歳)でレジョン・ドヌール5等勲章を受けています。
 師として、前記アベル・ド・ピュジョル、シャティイロン(建築家)、テイラー男爵の名が記載されています。テーラー男爵は画の師とは思えませんが、彼の著作全25巻「古いフランスの詩情あふれた、趣のある旅」の挿画(全6000点)に協力した関係で名が出たのでしょうか? 美術史上重要な作品を残した著名な画家が多くこの仕事に参加したことが、テーラー男爵の文献に見られます。ここで、ブーダンとウーヴリエの繋がりが、テイラー男爵を介してあったかもしれないと仮定できますが、それだけでは「写真」に撮られている理由としては希薄でしょう。もっと確実な物証が必要と思えます。ウーヴリエは美術史上特筆する業績は残せなかったようで、伝記などの文献は見当たりません。しかし、1923年発行の2巻のラルース百科事典にも、1932年出版の「20世紀ラルース」の大百科事典にもジュスタン・ウーヴリエの名は記載され、第二次世界大戦迄はウーヴリエはそれなりに著名な画家であったことがわかります。このことは、大戦後に美術史観が変わったことも示しています。そして、Webサイトにより、唯一、「テーラー財団にテーラー男爵、ブランシャー、メイヤー、芸術家、家族宛のウーヴリエの手紙が残されている」のがわかりました。となると、ブーダンのところに掲載した、テーラー男爵の財団に連絡を取って、ウーヴリエに付いて聞いてみれば、何かわかるかもしれません。カルスやブーダンとの関係がはっきりすれば、充分な理由が付き、その段階で「写真」の人物がウーヴリエであると査定してよいと思います。その意味するところは後で分析しようと思います。

ランデヴーを取った、2005年2月22日小雪降る朝10時、テーラー財団を訪ねました。少し遅れてきた中年の女史が対応してくれ、まず、手紙にミレー、カルス、ブーダンの名は出ていないとのこと、しかし、彼らの出ている文献を探してくれ、ナダールが撮影したウーヴリエの肖像写真を見せてくれ、持参した、「写真」の人物の拡大した顔と比較して、女史もよく似ていることを認めてくれました。しかし、現段階までに査定済みの画家達(ミレー、カルス、ブーダン)とウーヴリエの個人的繋がりを証明するものは見つかりませんでした。ブーダンとテーラー男爵との関係もテーラー財団には特に記録として存在しないとのことでしたし、テーラー男爵がノルマンディーに別荘を持っていたかどうかも、ル・アーヴル合同州副領事であったこと、つまりノルマンディーとの関係は知らないとのことでした。(テーラー男爵が州副領事の要職に就いていた事をテーラー財団の管理者が知らないのは、地方の事で名誉職だったのか? しかし、ブーダンが奨学金を得てパリに出る前にテーラー男爵の仕事をし、その後、直接にテーラー男爵から模写依頼されたり、直接画を売ったりしている事が日記に「T」と書かれ、それがテーラー男爵であり、男爵がノルマンディーに来ていたのは確かで、ブーダンの資料がテーラー財団に何もないという事は、二人の関係が、財団を通したものではなく、個人的なもので、テーラー男爵にとってブーダンは援助したその他大勢の画家のひとりで、財団の公式記録としては残らず、財団を後継した人たちはブーダンに興味がなく、調査もしていないと考えられます)。テーラー男爵がウーヴリエの画の師である話は否定していましたが、財団を辞した後に、サロン展のカタログを調べた時に、1852年以降、つまり、ナポレオン三世の時代以降のカタログに、ウーヴリエの名の後にアベル・ド・ピュジョルとテーラー男爵の弟子と記され、これによる記述である事がわかりました(このことも財団管理者から説明はありませんでしたので、彼女がどこまでウーヴリエに付いて知っているかわかりません)。1833年〜1850年のカタログの登録名はジュスタン・ウーヴリエとなっており、Jの項に分類されていました。アメリカの画廊のサイトに、最初はピエール・ジュスタン、ジュスタン、ジュスタン・ウーヴリエ、ウーヴリエと名前を変えたと書かれていたのがこの事だとわかりました。各時代を生き延びたテーラー男爵〔 因みに、祖先はアイルランド人で、大革命の年にブリュッセルに生れ、若い時から旅行を好み、1815年ルイ18世を、当時はフランスに合併されていたベルギーのガンに伴い、オルセー伯爵の部隊を助けたとあり、詳細な歴史の出来事はわかりませんが、こうしてテーラーは王政復古期に重用されていったのでしょう。1825年シャルル十世から男爵位を受け(想像ですが、1827年にウーヴリエがシャルル十世の肖像画を受注されたのはテーラー男爵の口添えかもしれません)、王立フランス演劇(コメディー・フランセーズ)の役員に任命され、それにより、ユーゴーの演劇を初演させた栄誉を担い、1830年の七月革命で成立した立憲君主制後も、ルイ・フィリップ王の為に、ルーブル美術館にスペイン館を創るのに協力し、立憲君主制下でも活躍の場を見つけ、1840〜59年文化に関わる各分野の共済組合の設立にかかわり、1847年フランス学士院入りし、1867年第二次帝制下で元老院、1877年第三共和制下でレジョン・ドヌール2等勲章グラントフィシエを受け、1879年にパリで亡くなり、ぺール・ラシェーズ墓地の礼拝堂の左横(墓地の一等地。礼拝堂の右横にはパリ・コミューンをつぶした元大統領ティエールの大きな廟があり、亡命地で没した画家ダヴィットの移葬された墓が前にあります。余談ですが、政治的にティエールに相対し、普仏戦争の時、徹底抗戦を主張したガンベッタの心臓は、現在フランスの偉人合祀廟であるパンテオンに、石壺に入って後部の参廟入口の上に祭られ、この二つは非常に象徴的ですが、忘却されている歴史の一つです。)に葬られました。〕と同じ様に、王政復古末期に世に出たウーヴリエにも、政変により、それなりの試練があったのかもしれません。テーラー財団に手紙以外のウーヴリエ資料はなく、見せてもらった、蔵書の「十九世紀の風景画家事典」にウーヴリエが画歴半ばにバルビゾン派の影響を受けたと記載されたのを見つけ、コピーを貰いました。その上、財団が保管する1870年の名簿(確認してませんが、共済組合の名簿ではないかと思います。)にウーヴリエもカルスもブーダンも記載され、それぞれの住所が明記され控えさせてもらいました。1860年の名簿にはウーヴリエしか記載されていず、住所はシテ・ピガール5番地とあり、表記は違いますが、女史は同じ場所であろうと言ってました。残念ながらテーラー財団でウーヴリエに付いて得られたのは以上のことでした。(書き忘れ : この時、女史はウーヴリエの名付け親がテーラー男爵である事を最初に話してくれた事を、ウーヴリエと「写真」に写っている査定済みの画家とのつながりばかりに関心が行き、書き忘れて仕舞いました。記載場所を読み返して気付いたので、この場に追記しておきます。テーラー男爵の召使がウーヴリエの両親と親しく、ウーヴリエの代親になったので、名付け親を男爵に頼んだとの事です。)

  1870年の三人のテーラー財団保管(共済組合?)名簿登録住所は、
   ・ ウーヴリエはピガール広場11番地。
   ・ カルスはロッシュショアール通り70番地。
   ・ ブーダンはサン・ラザール通り31番地。

ブーダンは冬の間滞在するパリの住所がよく替わり、パリのアパートとアトリエは期間を限った賃貸と思われ、1863年に結婚し、トロワイヨンの庭の後、トゥルデン大通り27番地に移り住んだと評伝にあります。当時、トロワイヨンが何処に住んでいたか正確に調べようと思い、結局、1857年にヴィオレ・ル・デュクに設計依頼をして、ロッシュショアール通り57番地に家を建て、そこで1865年55歳で亡くなったとある記載を見つけました。かなり離れていますが、ブーダンの借りた家は庭の後の方向になり、当時のモンマルトルの麓が現在ほど建て込んでなければ、問題のない文章表現でしょう。トロワイヨンの家は建て替えられ現存しません。ブーダンの住んだトゥルデン大通り27番地も建て替えられているようです。ここで、トロワイヨンを改めて調べると、トロワイヨンとウーヴリエは知己である可能性が浮かび上がってきました。まず、二人とも立憲君主制時代(1830〜1848)の国王ルイ・フィリップに後援された画家ユエとの交流関係があります。そして、サロン展で1831年ウーヴリエが2等賞、1838年トロワイヨンが3等賞、1843年ウーヴリエが1等賞、1846年トロワイヨンが1等賞を受けて、その上、二人ともにモンマルトルの麓に住む、4歳違い(ウーヴリエ1806年、トロワイヨン1810年生まれ)の隣人同士とすれば、彼らがブーダンと出会う以前に交流があったであろうことは、「画歴半ばにバルビゾン派の影響を受けた」と言う記述から充分推測できます。とすると、父親の反対を押して、画家になる志を持って、カリカチュール似顔絵で稼いで伯母に預けておいた2000フランを持って、パリに出てきたモネを、たぶんブーダンに頼まれて、トロワイヨンは面倒みているので、この時にモネはトロワイヨンに、近くに住むウーヴリエを紹介されたかもしれないと想像しました。なぜなら、モネはトロワイヨンに紹介された画家を訪ねたことをブーダンに手紙で書いています。マネの先生であったクチュールは怒りっぽいので、トロワイヨンに推薦されたけれど、やめたとか、モネは結局、自主的にモデルの素描ができるアカデミー・スイスを選んだとあり、そこでピサロと出会っています。この時、バルビゾンからパリに戻ったジャックに師事したと書かれた文献もあり、ウーヴリエの名はでませんが、モネがかなりがむしゃらに、ブーダンの人間関係の下に、パリの画家の間を動き回った事が想像できます。「印象派辞典」のトロワイヨンの項に1859年5月の最初のモネのパリへの挑戦にトロワイヨンにすすめられたように、モネは着くと直ぐサロン展を観、「バリエール・ロッシュショアール通りの芸術家を訪問した」とありました。そわ、誰か名が出るか、ウーヴリエか? 何の気なしに、1859年のサロン展カタログのトロワイヨンを調べると、登録住所が交差点バリエール・ロッシュショアール1番地とあり、この時、ロッシュショアール通り57番地の邸宅は建設中だったのでしょうか? 後の調査結果から推測すると、母親と暮らしていた邸宅では画を描かず、この住所にアトリエを持っていたと考えられます。つまりモネはトロワイヨンを訪ねたと言うことで、残念ながら新たな事実はないようです。唯、同サロン展カタログで他の画家を調べて、面白い事実が見付かりました。1859年のミレーのパリの連絡住所がサンシエの住所・フォンテーヌ・サン・ジョルジュ19番地なのに、1861年のミレーのパリの連絡先が、A・スティーヴンスの住所・テブート通り18番地になっていました。1860年にアルチュール・スティーヴンス(画家アルフレッド・スティーヴンスの兄)を仲介にして、ベルギー人ヴァン・プリエと月1000フランの個人契約ができた裏付けになる記載です。その後、再びサンシエの住所を連絡先にしているので、スティーヴンスとの友好関係が終わった事も分かります。尚、テブート通り18番地はアルフレッド・スティーヴンスがマネに貸した大きなアトリエの住所として、スティーヴンスの略歴に記載されていました。それに、サンシエはその後同じ通りの6番地にアパートを移っていることがミレーの連絡先住所から判明し、それは賃貸契約が切れたからなのか? バルビゾンには家を買いましたが、パリには家を買ってないということでしょうか? 話があらぬほうに飛んでいます。戻します。
 ここで、バルビゾン派でありながら、パリ、モンマルトルを足場に1850年には既に成功した画家の仲間入りをした、トロワイヨンがミレー、ブーダン、モネとウーヴリエを仲介している可能性が出てきました。
(少し、想像を膨らませ過ぎるきらいが見えます。自重、自重。)

テイラー財団の資料から、モンマルトルの麓での画家達のつながりに重点が移りそうなので、ブーダンがトロワイヨンを頼りモンマルトルに出てくる付近から調べようと思い、インターネットでモンマルトルを当たリ、「9区の歴史」Webサイトに、1861年から1865年までピガール通り66番地にウージェンヌ・ブーダンが居住したとあるのを見つけました。確認のため9区の区役所に4度足を運びましたが、事務所に人が居ず、いまだ確証が得られません。評伝に違う住所が明記されているので、この場所にアトリエだけを借りていたのではないかと推測していますが、確認できたらと思い、再度訪ねるつもりです。やっと、「9区の歴史」会の人に会えましたが、Webサイトは彼らのではなく、何の資料によるものか知りたかったのですが、分かりません。調べて分かったら連絡するとの話ですが、現在まで連絡はありません。現在のジャン・バプティスト・ピガール通り66番地を尋ねると、64番地までで、66番地はピガール広場9番地になっています。後にカフェ・ヌーヴェル・アテネ、クリシーのカフェ・ゲルボワの後に印象派達が集ったカフェがあったところで、Webサイトはその後、キャバレーになり、変遷後「New Moon」と言うロックのキャバレーになり、それが取り壊された、その抗議のサイトでした。故に「根拠もなくブーダンが住んでいたとサイトに記載した」とは断定できません。何故なら、1861年、2年にブーダンが彼女を連れてパリに出てきたのは事実で、その時トロワイヨンに画を見せています。その時に滞在した場所は記載されていませんが、1863年に結婚してパリに出て来た時はトュルデン大通り27番地で、1864年はデュランタン通り15番地、1865年はフォンテーヌ・サン・ジョルジュ通り31番地と明記され、ピガール通り66番地の記載はありません。評伝に、1868年に「パリに戻ったが、デュランタン通りの住居があまりに狭いので、放棄することに決め、広いアトリエのサン・ラザール通り31番地に移った」と記載があり、競売所ドゥローで画が売れ収入があったのが理由と思われます。となると、サロン展カタログの登録住所によればデュランタン通りからフォンテーヌ・サン・ジョルジュ通り31番地に1865年に既に移っているのに、1868年にデュランタン通りの住居を放棄することに決めたと言う記述は、ブーダンが住居とは別にアトリエを借りていたと受け取れます。当時のモンマルトル界隈の状況がほとんど変わってしまったので、確認できず、想像さえし難い歯痒さがありますが、ピガール通り66番地の問題も絡めて、サン・ラザール通り31番地を調べることにしました。そして、まだ記憶に新しい1928年、没後30年に上梓されたブーダンのルイ・カリオ著の白黒画集(前掲載のブーダンの画はこの画集によります)の評伝を書いたカリオの記述の信憑性に関わりますが、そこにアトリエを見付けることはできませんでした。しかも、1867年に第二回パリ万国博覧会があった時にパリはオースマンにより大改造が行われ、モンマルトルの麓も開発の波が押し寄せ、家賃が安いので多くの芸術家が移り住んだと言われる環境がかなり変わっているので、そこよりもっと中心地に近いサン・ラザール駅付近は、個人所有者によりアパートの建て替えが行われた可能性は充分あります(建物に建立年代が刻まれていないので明確ではありません)が、実地に見、管理人に聞いた限りでは、建て替えられていないようです。と言う事は、ブーダンはアトリエを別に借りていたと考えられ、ルイ・カリオが誤記している事になり、しかも、最終的にサン・ラザール通り31番地の現建物の建築年代が分かり、建て替えられてなければ、ブーダンは別にアトリエを借りていたことの証明になりそうです。はたして、年代を確定できるでしょうか? 2度訪ねましたが、管理人は1824年に建てられたと言い張っています。根拠は何なのでしょう。聞けばよかった。改めて、通りから建物を眺めると、確かに両脇の建物より古いことは一目瞭然です。そして5階以上が、奥に引っ込んで、2階分付け足したようになって、両隣の建物と高さが同じになっています。6、7階がアトリエになっていたのを後で建て替えたのかもしれないとすれば、ルイ・カリオの誤記はないと考えましたが、推測の域を出ません。3度目の訪問を敢行、再度しつこく管理人室を訪ね、どうして1824年と知ったのかと訊ねると「建物の共同所有者がそう言った」と言うことで、「それ以上のことは何も分からない」と奥に引っ込んでしまいました。1824年建立と言った人を訪ねるわけにゆかず、奥の1階の事務所の扉が開いていたので、無遠慮にも聞いてみましたら、「昔のことは良く分からないが、ここは、15年前に車庫(馬車用の車庫でしょう)を改造して事務所にしたもので、前側にある事務所は以前は倉庫として使われていた。従って、これらが芸術家のアトリエとして使われていた可能性はあるでしょう。」とのことでした。礼を言い、辞し、通りに出たところで、前2度の訪問時には気付きませんでしたが、入口の横は不動産屋でした。同じ建物なので何かわかるかも知れないと思い、遠慮せずに中に入り、訊ねると、「1階がアトリエだった」と言いました。念を押しましたが、彼女はそうだと言い張ります。しかし、「天井が特に高くないし、しかも一般に1階のアトリエは彫刻家用ではないか」と言うと、彼女もそれらの事情を良く知っていて、「高さ5,6メートルの全面北窓のそんな画家専用のアトリエはこの辺にはない。」と言うので、再度、念を推しましたが、間違いないとのことで、「本などには大げさにうそを書くものだ」(大きなアトリエの部分に対してでしょう)との話、不動産屋の話なので、体験的な意味があるかもしれません。話をまとめると、馬車を入れておく車庫が1階の中庭の奥にあり、それが改造されて、芸術家のアトリエとして使われたと考えられます。それ以外にサン・ラザール31番地に「大きなアトリエ」の存在は考えられず、とすればルイ・カリオの記述は一応の信憑性を確保できた事になります。ブーダンは大きな画を描いていないので、高さは充分だったのかもしれません。それに、デュランタン通りのアトリエがあまりに狭かったので、そこと比較したら充分大きかったのかもしれません。しかし、すべて推測で、確証には至りません。これも推定に過ぎませんが、画家用の天井の高い、北向きの窓で、太陽の運行に左右されない上からの明りが差し込む、理想的なアトリエは当時画家自身が自前で建てたものが多く、家主が画家に貸す目的で建てたものは少ない筈です。つまり、すべての画家が画家専用のアトリエで画を描いていたとは思えないので、ミレーにしても、その他の画家も、画が売れるようにならなければ理想的なアトリエを手に入れることできなかったのではないかと思います。ミレーのパリのアパートにしろブーダンのこのアパートにしろ、きちんとした画家専用のアトリエが存在しません。確かクールベは元教会をアトリエとして使用していたし、マネは元フェンシング道場をアトリエに使っています。従って、このサン・ラザール通り31番地に関してはブーダンが元馬車用車庫をアトリエとして使うことは充分あり得ると思えます。それ以前(サン・ラザール通り31番地の前)は普通のアパートの一室をアトリエとして使用していたと考えてもよいし、結論として、1864年にデュランタン通りに狭いアトリエを見つけるまで、ピガール通り66番地をアトリエとして使用していた可能性が、いままでの調査で充分あると思われます。ブーダンはサン・ラザール通り31番地を1878年まで借りていました。

カルスの住所に関しては、1863年の落選者展のカタログを調べましたが、残念ながら住所の記載はありませんでした。しかし、娘が1840年と1851年にパリで生まれ、画家でもある妻の精神が娘が生まれた後、狂い始め、ヴェルサイユの精神病院に入れたとあり、この時期はドリア伯爵の居城に一室を与えられ仕事をしたとカルス展カタログ小伝にあり、妻はコニエ教授のアトリエで知り合った貴族の娘で、精神病院で彼女が亡くなった翌年、1873年にオンフルールに家を購入し、妻の血を引き、同様に精神病院に入った娘を引き取り一緒に住んだが、パリのアパートはそのまま所有していたと記されているので、ドリア伯爵の居城に一室があった時(1859〜70年)も、理論的には、テーラー財団の名簿にあった住所にアパートをずっと所有していたのではないかと思いましたが、やはり気になりますので、サロン展のカタログで、何とか当時の住所を調べようと思い立ち、最初に、リシュリュー国立図書館で調べました。コンピュータで見付かったのは、1863年の落選者展のカタログだけでした。それにより、カルスの出品は確認できましたが、前記したように、住所は記載されていませんでした。
 その時、装飾美術館の図書館か、パリ市立フォルニー図書館が美術に関しては専門だから資料が見付かる可能性があると聞き、行き慣れた、フォルニー図書館に行く事にしました。国立図書館と比べて、昔から親しみのある小さな古い図書館ですが、以前より開放的な雰囲気を感じました。パリ市立図書館ではありますが、一般の市民図書館とは違い、歴史図書館と、カーナヴァレ美術館の版画室と共に、パリ市管轄の古い文献を所蔵する素晴らしい図書館です。早速、フォルニー図書館でサロン展のカタログを調べ、出品した年に登録した各画家の住所が得られました。その結果から、査定の裏付けが何処までできるのか?これがサロン展カタログで各画家の各年代の住所を確認する調査の最初でした。話が前後する内容なので、文字色を変えました。サロン展カタログ資料は全てフォルニー図書館所蔵版によります。
 カルスの1861年のサロン展カタログの住所登録は、マルタン親父の、自宅兼画廊の所在地、モガドール通り20番地になっていました。オペラ座の裏の通りを聖トリニテ教会に向かってまっすぐ北に上る道です。1863年サロン展附属(落選者展)カタログに出品記載はありますが、住所記載はなく、1864年と1865年は、ブーダンが1869年以降住むことになるサン・ラザール通りにぶつかる一つ手前を右に折れる道、ヴィクトワール通り46番地が登録されています。1870年は再び、移転したマルタン親父の家、ラフィット通り52番地を連絡住所に登録しています。ラフィット通りは当時、画廊街になっていました。地図で調べるとブーダンの住所サン・ラザール通り31番地とは直線距離で200mも離れていません。実地に調べると、道二本隔てて真っ直ぐの北に位置し、歩いて直ぐの距離です。従って、彼らは新興の画廊街界隈に居を定め、カルスはドリア伯爵の居城に部屋を貰っていながら、パリにアパートを借りたり、マルタン親父の家に厄介になったりして、パリで印象派の若い連中とも交流し、パリに出てきたブーダンとも会っていたのではないかと思われます。第1回印象派展の会計を担当したのがマルタン親父(カタログはルノワールの弟が担当)なので、カルス、ブーダン、マルタン親父の関係は1874年開催の第1回印象派展での若い連中との関係でもはっきり見えます
 サロン展カタログにより住所が確認でき、サロン展のカタログでカルスの連絡住所を調べる限り、1835年から1870年までの35年間に17の違う住所が記載されていました。ちょうど、平均して2年ごとに住所を変えている計算になり、引越し好きな性格といえるでしょう。カルスの70年代のテイラー財団の(共済組合?)名簿の登録住所がロッシュショアール通り70番地とあるのは、パリ・コミューン後、ドリア伯爵の居城を引き払い、直後にパリにアパートを借り、妻も亡くなり、オンフルールに家を購入(1873年)後もパリにアパートを持っていたと記載されていましたが、前記のように何度も住所が変わっている事実からロッシュショアール通り70番地の住所も引越し先の一つと思われました。しかし、オンフルールで亡くなったとあり、何か手がかりが得られないかとオンフルールの市役所を訪ねると、死亡登記簿により、喪主であるカルスの娘マリーの1880年11月の住所がパリのロッシュアール通り70番地になっているのがわかりました。従って、オンフルールに家を購入と同時期に(下司な勘ぐりですが、この時期にカルスの画が売れたという話もないので、貴族の娘だった奥さんが亡くなり、その遺産相続により得たお金で)パリにアパートを購入したとも考えられます。結局、カルスはサロン展出品を放棄し、第4回印象派展まで毎回出品し、1880年10月3日にオンフルールで亡くなり、聖カトリーヌの墓地に葬られていることがわかりました。早速訪ねると、古い墓地の敷地の奥に建つ白大理石の墓碑でした。墓碑に明記されているように、没後に彼の友達(画家仲間か?)により、カルス顕彰の意味も込めて立派な墓碑が建立されたのではないかと想像されます。しかし、喪主でありカルスがオンフルールで面倒を見たと書かれる妻同様に精神を病んだ画の才能を持つ娘の住所がパリのロッシュアール通り70番地になっている事実をどう読み取ったらよいのでしょう。没後、印象派展でカルスの回顧展を同時開催した記事がありましたが、没後の売立てなどの記事はなく、印象派の先駆者としての評価も定着しているように思えませんが、この「写真」の査定が正しいと認証されれば、カルスと印象派の画家達との接触が彼らの20代の初めからあり、第一回印象派展開催の十年以上前にさかのぼる証拠になるわけで、ピサロが語るようにカルスは印象派の先駆者のひとりとして評価されても良いと思うので、この「写真」がカルスの評価に新たな1石を投じることになると思われますカルスの墓

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オンフルールの
カルスの墓

ウーヴリエの1863年の住所に関して、1860年の(共済組合?)名簿の登録住所ではシテ・ピガール通り5番地とありますが、1863年の住所確認にはならないので、改めて、1863年のサロン展カタログを調べると、ウーヴリエは3点入選、住所はバリエール広場1番地モンマルトルとあります。この住所は現在モンマルトルにはありません。パリ歴史図書館で確認しなければならないでしょう。考えると、(共済組合?)名簿に記載のシテ・ピガール通りと言う表記も変です。シテとは道ではなく集合団地の場所に対して使われ、普通袋小路になり、通り抜けられませんので通り名にはなりません。
 【調査結果】 バリエールとは市門、城門で、パリ市が1858年に拡張される前、現在大通りと称されるされるところに塀が築かれていて、現在広場になっている場所に、出入り口として、クリシー市門、ブランシュ市門、モンマルトル市門などがありました(この文献には記載がありませんが、トロワイヨンの住所にあったロッシュショアール市門もあり、モンマルトル市門は現在のピガール広場に在りました)。残されているサン・ドニ門、サン・マルタン門はルイ14世によって、当時パリがそこまで城壁に囲まれていた1672年、1674年に建てられたものです。その後1791年に拡張された城壁に設けられたのが今問題にしている市門です。最終的に市門が取り壊され、12区までだったパリが、20区に広げられ、その時、城壁と共に市門も取り払われ、城壁は大通りになり、市門があった部分は広場(PLACE)になっています。その改造がナポレオン三世のこの時代にセーヌ県知事オースマンによって行われ、住所表示がいろいろ変わっているのでしょう。従って、バリエール広場1番地モンマルトルは現ピガール広場1番地です。
 1857年のウーヴリエのサロン展カタログ登録住所が番地なしのRue et cite Pigalle とあり、(共済組合?)名簿には5,rue cite Pigalle とあり、ピガール通り5番地と現在のCite Pigalle(当時のピガール通り41番地に該当)に、アトリエと住居が別々にあったのを意味しているのかもしれませんが、とすれば、5,rue Pgalle et cite Pigalle と表記されます。同じPigalle だったので、それを省略して、rue cite Pigalle と表記したのでしょうか? カタログと名簿の両方の表記が間違いでなければ、不可解です。翌年の住所はピガール通り77番地になっています。これも現ピガール通りとピガール広場の交わる角で、ピガール広場11番地と隣り合った住所で、同じ建物が、二つの通りに面していると、二つの住所表記があるとか聞きました。それが正しければ、ピガール通り77番地はピガール広場11番地と考えられます。後の考証になりますが、登録住所の表記に印刷ミス、或いは登録者自身の記載ミスがあることも考えられます。従って、何処まで、この住所を参考に話が進められるか、注意が必要でしょう。何れにしろ、この広場近くにたくさんのアトリエがあったと想像されます。

ブランシュ城門1850年
ブランシュ市門1850年版画(「パリ9区の歴史」より転載)

サロン展カタログ掲載の各出品者の住所について考察すると、1863年のサロン展カタログに、ブーダンとカルスの名はなく、カルスは落選し、落選者展に出品し、既に落選者展カタログで調査済みです。「ブーダンは入選したがカタログに掲載されなかった」と、評伝に書かれていたので、その確認になりましたが、名前の間違い、住所の間違い、記載漏れがあっても不思議ではないと思います。又、果たして本人が登録している住所に住んでいるのかの問題は、連絡先であると考えられるので、必ずしも本人の住所とは限らないであろうと思われます。そして、その住所にアトリエがあるとも限りません。従って、サロン展カタログの住所を何処まで重視するかは検討する必要があるでしょう。又、Webサイトに記載されている(裏付けのない)ピガール通り66番地にブーダンが居住したとありますが、評伝に1863年と1864年の住んだ場所の記載があり 《1865年のトロワイヨンの葬儀の後「いつもの小さなアトリエに通った」との記載は、文脈からして、どこか別にアトリエを借りていたと想像され、それがデュランタン通りの小さなアトリエと思われます。二重括弧にくくったのは、記憶だけで、出典の確認ができず、最近思い違いが多いことに気付いたからです》、何の資料にこのピガール通り66番地が出ているのか分からず、そこにアトリエだけ借りていたことは充分に有り得ますが、確証は得られていません。

  1863年の三人の住所を確認すると、
  • ウーヴリエはバリエール広場1番地。(1863年のサロン展カタログに記載)
  • カルスはマルタン親父のモガドール通り20番地か、ヴィクトワール通り46番地と思われますが、確認できず。(1861年と1864年、5年のサロン展カタログに記載、1863年の住所確認資料はありません)
  • ブーダンはテュルデン大通り27番地(評伝に記載)とピガール通り66番地(Webサイトに記載)。
    このピガール通り66番地に関しては、Webサイトに記載があるだけで、裏付けが取れません。当時のバリエール広場9番地と同じ場所で、ピガール広場に関しては、1番地、5番地、11番地にアトリエがあった事が「古い道路辞典、9区」で確認され、ピガール広場9番地には、1870年カフェ・ヌーヴェル・アテネが開店されたとあるだけで、それ以前の記載がありませんが、9番地にもアトリエがあった可能性は充分あり、ピガール広場9番地と同じ、ピガール通り66番地にブーダンが居住していたとある、出典元が分かりませんが、もしそれが確認できたら、住居は別で、ブーダンがそこをアトリエとしてだけ使っていたと考えられます。現在まだ参考資料です。
年代別には書きませんが、ウーヴリエはピガール広場からそれ程離れていない地区を数回移っています。しかし、23,rue Neuve-Breda、8,rue Breda 、8,place Bredaとあり、その後、テーラー男爵の財団と同じ通りのラ・ブリュイエール通り22番地に7年住んだ後、rue et cite Pigalle、24,rue Pigalle と移っています。前3つのアルファベットの場所は現在存在せず、道の名前が変わっています。現モニエール通りと解説され、同じ通りか、直ぐ傍と思われ、ピガール広場からフロショ通りを下った続きです。最後にピガール広場になる場所にウーヴリエは落ち着いたようです。カルスも1835年から2年、2年と変わり、3年間は毎年変わり、2年、2年と変わり、3年間同じ住所、翌年同じ通りで番地を変え、2年毎年変わり、1857年にドリア伯爵の居城とマルタン親父の住所が続き、1864、5年とヴィクトワール通り46番地とありますが、1870年には再びマルタン親父に厄介になっているようで、その後にロッシュショアール通り70番地に落ち着いたのか、印象派展参加後はサロン展に出品していないので、カタログによる住所確認はできませんが、パリのアパートを維持したまま、オンフルールに家を購入し、娘と一緒に暮らしました。ブーダンもパリの住所が変わっています。つまり、パリのアパート及びアトリエは賃貸と思われます。1884年ドーヴィルに、妻マリー・デゲによると、「鳥かごのような」家を建てましたが、1889年彼女がパリで亡くなったので、サン・ヴァンサン墓地に葬り、故に、ドーヴィルの自宅で亡くなったブーダンがサン・ヴァンサン墓地に眠っているわけで、ドーヴィルに家を建てた後も妻と共にパリに出て来ていることがわかります。ブルジョワの子弟であったマネもアトリエを何度も移っているので、基本的に、パリのアパート付きアトリエは賃貸で、問題を起こし持ち主に契約を打ち切られたりしていますが、持ち主は容易に一部を分譲しなかったのでしょうか? モンマルトル界隈でアトリエを移っていたマネの墓はトロカデロ広場(パリで一番高級なアパートのある場所)に面したパッシー墓地にあります。そこのところは正確に調べていないので、確証あるものではありませんが、ゾラにしても、モネにしても、郊外や、田舎には家を購入していますが、パリに家を残してはいないようです(ゾラの終焉の地、ブリュッセル通り21番地が彼の所有であったかの確認はしていません。但し、所有であった場合、遺族の所有になり、多くの場合、そこに記念館が創られますので、やはり、賃貸であったと思われます)。例えば、銀行家の息子であるドガが、最後まで賃貸アパート兼アトリエに暮らしていた事実は、何かを示しているように思いますが、ここで、ドガの事が浮かび上がって来たので、話を進め、

年配の画家三人のことばかり問題にしてきましたが、ふっと、ドガもこのあたりに住んでいた筈だと思い、調べ直すと 【(1859年)10月1日マダム通りのアトリエをやめて、ラヴァル通り〔を、キャヴァンヌ教授はきちんと、括弧して今日のヴィクトール・マッセ通りと書き、そして、子供時代に育った場所とそれほど離れていない其処〕にその後ずっととどまったと書いています。ほぼ20年間住んだとレイモンド版にあります。(中略)日本でのドガ展のカタログ年譜に記された、住所、その年代をこの場にまとめて記載しますが、1859年10月ラヴァル通り13番地、1872年ブランシュ通り77番地、1876年4月フロンショ通り4番地、1877年10月ルピック通り50番地、1882年ピガール通り21番地、1890年4月ヴィクトール・マッセ通り37番地、(1891年、「彼の住所はバリュ街23番地となる」とありますが、1912年、「1890年以来ドガが暮らしたヴィクトール・マッセ街の彼の家が壊される。」と同じ年譜にあり、前出ラヴァル通りに関して、古い地図で確認し、キャヴァンヌ版、レイモンド版にある様には、ずっとヴィクトール・マッセ通りに住んでいたわけではありませんが、最後のアトリエがヴィクトール・マッセ通り37番地であったのは間違いない事実と思います)1912年、前記の様に、取壊される事になり、クリシー大通り6番地に移り、そこが終焉の地になりました。(20ページ飛んで)1910年以降、殆ど眼が見えなくなり、1912年に契約が切れ(「3階の階段の正面がドガのアトリエであった」とモロー・ネラトンが書いています。1859年に既にフレデリック・ド・クルシーが隣の39番地にアトリエを持っていたとあるので、何棟かの芸術家のアトリエが集まって建っているアパートと思われます。)】(既に書いた「写真」に関する文章より抜粋)となり、これを現在考察すると、83歳まで生きたドガが、25歳、1859年の時点では、ラヴァル通り13番地/現ヴィクトール・マッセ通り13番地(番地の確認はしていません。通り名が変わっただけとの判断です。)に13年間住み、1890年4月にヴィクトール・マッセ通り37番地に移り、その3階、4階を(3階がアトリエであったのか、3、4階がぶち抜けのアトリエであったのか、詳細はわかりません)12 年間借り、その他に4箇所、別にアトリエを移っていたことがわかり、現在も、アパートの賃貸契約が、3年、6年、12年という形の契約年数ですので、大家は貸している人の契約年数を考えて、所有の建物の処理を考えると思われ、逆に、契約が切れないと問題があっても追い出せないわけで、クールベのアトリエ教室(前記、もと教会のアトリエとは別)も、マネの元フェンシング道場のアトリエも、大家が再契約を断り、追い出されています。伝記を書く人はそこまで神経が回らず、10年を単位にし、20年、30年となるのでしょう。研究者は常に裏付けを取らなければならない理由がわかります。心しましょう。ドガは25歳でラヴァル通りに移り住んでからモンマルトル以外に居住地を移していません。よほど生誕地であるこの地域が気に入っていたのでしょう。
 話があちこち飛んだので、まとめると、1863年の時点で、ドガはヴィクトール・マッセ通り13番地、前記の先輩画家の近くにアトリエとアパートを借りていたことになります。

パリで生まれて、パリで亡くなったドガのパリの居住地を調べて気付いた事ですが、不思議な事に、ドガの生誕地、サン・ジョルジュ通り8番地も、最後のアトリエ、ヴィクトール・マッセ通り37番地も建物が取り壊され新しくなってしまいました。ドガの美術館建設の構想も実現しませんでした。一つには、弟による負債を長男である彼が負ったと言う事情もありますが、ドガが銀行家の長男であり、画が売れるようになり、資産ができたにもかかわらず、最後まで賃貸のアパート暮らしを選び、自分のアトリエを所有しなかったのも要因の一つでしょう。抗い難い運命の不思議さを思います。そんなことで、もう、取り壊される事のないドガの奥つ城、モンマルトル墓地のド・ガ家の墓の写真を掲載する事で、モンマルトルッ子のドガを敬い、1863年の話に戻して、検討を続けます。ド・ガ家の墓
ド・ガ家の墓

1863年の落選者展には後の印象派の中でピサロとセザンヌが出品したとあったので、カタログを調べると、印象派の最年長者ピサロだけが確認され、登録住所は新ブレダ通り23番地とありました。それは奇しくも17年前にウーヴリエがサロン展カタログで住所登録しているのと同じ場所であることを、ウーヴリエの住所を年代別にまとめた時見つけました。それは、そこに引き続きアトリエが存在し、ピサロがそこで画を描いたか、その場所を使用している画家と何らかの繋がりがあり、そこを連絡場所にした事実を浮かび上がらせます。コローに師事したピサロと他の印象派の画家とのつながりは、「バジールは1863年、伯父のルジョンヌ家で(エックスの銀行家の父親がルジョンヌ少佐と知り合いなので夕食に招待された)セザンヌと出会い、セザンヌによってピサロを紹介され、二人を自分のアトリエに連れて行ったとあります。(アトリエを共同に使用していたルノワールによれば、バジールが「二人の優秀な新入会員を連れてきた」と言って彼に紹介したと言う事です)」(自著より)となり、モネは1859年に初めてパリに出て来てアカデミー・スイスに通ったのでピサロと既に出会っていたこともあり、加えて、ピサロの登録住所を通して、1863年の画家たちの繋がりが無数に存在する事が想像できるので、どんな物語も語ることが可能に思えますが、語れる物語の中で真実をどうやって見つけ出すのか? 残されたこの「写真」に写っている数人の人物によって語られる真実を果たして突きとめる事ができるのか? ピサロの1863年の住所が、新たに波紋を投げかけてきます。当時のモンマルトルの画家達の相関関係の多様さを想像させる記録でした。

「写真」の中で査定したバジールは長身である身体的特徴から特定され、バジールの義理の伯父・ルジョンヌ少佐の家が9区のテュルデン大通りにあり、そこで毎土曜に「サロン」(晩餐会)が開催され 〔1862年マネが描いた「チュールリー公園の音楽会」に描かれ人々がルジョンヌ夫妻の「土曜日のサロン」に出席していた面々であると言われています。当然、彼らはマネと親しく、かつ、常連であったと思われ、かつ、ボードレールがこの画の為にモデルに通ったと言う話から、マネのモデルを勤められる人たちでもあったわけで、ボードレールと向き合って描かれているのがテーラー男爵です。一部は、ナダールが肖像写真を融通したとも言われ、当然、ルジョンヌ夫妻の晩餐会に出席していた人々がすべて描かれているわけではなく、ウーヴリエもカルスもブーダンも描かれていないと思われますが、描かれていないから顔を出していなかったことにはならず、バジールの手紙にも、「しばらく伯母の土曜の晩餐に行ってない」と書かれるように〕、 彼等三人もルジョンヌ少佐の「サロン」(晩餐会)に毎週顔を出したわけではないと思いますが、サロン展の開催されている頃は、やはり、近況を知り、仲間と旧交を温めたいと普段余り顔を出さない人も出かけて来るのではないかと想像したわけで、加えて、「サロン」(晩餐会)の主催者ルジョンヌ少佐は官展派を罵倒し、ミレーを好み、彼の為に「唯独り、刈り入れの天国と地獄を描く、平民のダンテ、田舎者のミケランジェロ!」(最後の2行)とソネットを書いています。「ソネットの作者は、指揮官のルジョンヌであった。冷静な観察者である彼は、トロワイヨンの昔からの友人であり(これはブーダンがトロワイヨンを通してルジョンヌ少佐のサロンに出入りした可能性を示します)、愛想よくていねいに、しかしできるだけ寡黙に方々の画家のアトリエを訪問した。」とサンシエの「ミレー伝」(サンシエ著「ミレーの生涯」1998年講談社刊より、カッコ内は別)にあり、これらの状況から、この「写真」に写っている連中が、1863年のサロン展が開催された土曜日のルジョンヌ少佐の家の「サロン」(晩餐会)で顔を合わせ、ミレーの噂に花が咲き、話の成り行きで、先月シャイイで復活祭を過ごしたばかりのモネとバジールを伴って、ルジョンヌ少佐の招待状を持って、ミレーを訪ねることになったのではないかと言うのが、判明している事実をより合わせて考え付いた物語です。

当然、モネとバジールについても1863年の住所を調べなければなりません。バジールがパリで最初に借りたアパートはバリー通りとあり、現在と同じ通りなら、シャンゼリゼ通りのジョージ5世通りの反対側です(ただ、そうすると、パリ医学部にはかなり遠くなります。美術学校教授らのアトリエがあった文教地区を移転したクールベを調べて知ったのですが、セーヌ県知事オースマン男爵によるパリ改造でサン・ジェルマン界隈はかなり変わり、18世紀の面影はかなり少なくなっていますし、ローマ時代の遺跡が発掘され、それによっても家は取り壊され、医学部を拡張したり、道を広げ、大通りを通したりで、道の名がなくなったり変わったりしているので、綴りの違うバリー通りがサン・ジェルマン近くにあったのではないかと考えましたが、単なる想像です)。しかし、1863年10月6日の母親への手紙に「私はセーヌ通りに面した、たった一つの窓がある小さな寝室を三階に借りています。」とあり、バジールが通った医学部も、アトリエ・グレールも、アカデミー・スイスも美術学校も、パリ左岸で、1864年1月15日最初のアトリエをヴォジラー通り117番地にアトリエ・グレールの仲間ヴィラと共同で借りています。その後、1864年暮れ、ドラクロワのアトリエ、現ドラクロワ美術館のあるフルステンベルグ通り6番地にモネと共同でアトリエを借りているし、父親の手紙にも、バジールがカルチェ・ラタンを画家仲間と遊び歩いてばかりいるのではないかと心配している内容の手紙があるので、この時期、若い二人は勉強する場に近いところにアパートを借りていたと考えられ、パリ左岸にいたと推測できます。この「写真」の撮影時期に彼らが何処に住んでいたか確定できませんが、若い彼らは、必要ならどんな遠いところにでも容易に出かけて行くと思うので、ルジョンヌ少佐とバジールが親戚関係にあり、バジールとモネが親しく付き合っていた事実がある以上、彼らの住所が何処であったかは重要な問題ではないと判断します。しかし、一応、1864年以降の彼らの住所を二度目のサロン展カタログ調査で調べると、この「写真」の検証と関わるかかも知れない事実が見つかりました。
 それは、1866年のサロン展カタログに記された住所です。その年のブーダンの住所を調べているとき、モネとバジールの初入選もこの頃ではなかったかと調べると、モネは「カミーユ」と「フォンテーヌブローの森」の2点が入選し、モネの登録住所は、ピガール通り1番地。バジールは「魚」1点が入選し、登録住所はゴド・ド・モウロワ通り22番地(22,rue Godot-de-Mauroy)。共にパリ右岸に移り、9区ですが、バジールはクリシー広場をずっと下った、オペラ座とマドレーヌ寺院の間です。フルステンベルグ通り6番地のモネと共同で借りたアトリエは、バジールの弟への手紙に、「2ヶ月家賃を前払いしていたと勘違いし、家賃が払えなくなり、1月15日には完全に追い出されている」と書き、伝記には「1月15日にアトリエでドンちゃん騒ぎをし、隣人達の顰蹙をかい、アトリエを出なければならなくなった。」とあり、多少ニュアンスが違いますが、1ヶ月前に書かれたバジールの手紙があるので、出なければならなくなった若者達が最後にドンちゃん騒ぎをしたと考えたほうが自然でしょう。実際は画家の卵たちの溜まり場になり、家主から契約更新を断られたのかもしれません(1964年12月22日木曜日の母親への手紙に次の月曜日に新しい住所に移っていると書き、1865年1月1日の父親への手紙に、フルステンベルグ広場6番地と書いています。想像ですが、1年後に出ている事から契約更新を家主が断った可能性は大きいでしょう)。そして、1866年のサロン展カタログに記載された住所が彼らが移った場所になります。もう一つ問題になるのは、この年のサロン展に「カミーユ」を出品しているモネは彼女と同棲していたと思われることで、それがあって、モネとバジールはアトリエを別にしているのではないかと想像できます。ピガール通り1番地は、聖トリニテ教会のすぐ傍で、通り名の彫刻家、ジャン・バプティスト・ピガールが1756年に家を買って1782年まで住み、1785年にロッシュフーコー通り12番地で亡くなったとあり、そこに当時はまだアトリエが残っていた可能性はありますが、現在は建て替えられ、その面影はありません。因みに、カミーユの実家は隣の8区で、紆余曲折を経て、子供ができた3年後にモネとカミーユは1870年6月クールベ等を立会人にして8区の区役所で結婚しています。それはさて置き。前記したウーヴリエの住所年代別表記により、1866年にサロン展に2点「ハイデルブルグの城と町」「フリブールゲン・ブリゴウのカテドラル」(地名表記は自信がありません。2点とも建造物を中心とした風景画でしょう。)を出品したウーヴリエの登録住所が、モネと同じ、ピガール通り1番地でした。バリエール広場1番地は後のピガール広場1番地で、そこに、アトリエと住居を借りていたウーヴリエが、(ピガール広場を整備するために一時的に立ち退かされたのか?)ピガール通り1番地にアトリエを見つけ移った時に、モネに間貸しをしたのか、住所だけ貸したのか? たまたま同じ場所に、モネもアトリエを見つけたのか? 二人の関係が文献に見られないので、何ともいえず、単純に、住所が同じだからといって、二人の間に特別な関係があったと、即断もできませんが、この「写真」の人物査定を絡めて考えると、二人の間にそれなりの関係の存在を考えてもよいのではないでしょうか? 1864、5年はピガール通り77番地で、1867年からウーヴリエの住所はピガール広場11番地になり、1873年まで変わらないので、ピガール通り77番地(現ジャン・バブティスト・ピガール通り77番地はピガール広場11番地と隣り合っています)から、一時的に、ピガール通り1番地に移ったのは、ピガール広場の整備計画上移る必要があったためと想像しました。文献上で確認したことではありません。その事もあり、気になるというより、何かが明確になるのではないかと、1866年のサロン展カタログの三度目の調査を敢行いたしました。結局、ウーヴリエはデッサンも出品していて、そこに記載されていた住所はピガール広場1番地でした。当時、ウーブリエと同じ住所にいたとされる画家の住所を調べると、ピガール広場1番地とあるので、印刷ミスと思われます。つまり、通り(RUE)と広場(PLACE)の間違い。しかし、印刷ミスという事を証明するには1866年にピガール通り1番地に誰が住んでいたかを調べ、彼らとまったく関係ないことを証明しなければなりません。1863年のピガール通り1番地の住人全員を突き止められれば、新たな事実が浮かんでくるかも知れませんが、今のところ、どう調べればよいのか思いつきません。ウーブリエの住所の間違いはデッサン部門での登録住所で証明できますが、モネの住所に関しては間違いかどうか、知るすべは今のところありません。従って、せっかく、ウーヴリエとモネの関係を証す明瞭な証拠になるかもしれないと思われた、カタログの同じ住所の登録が、印刷ミスではないかとなると、これ以上何も追求できず、残念ですが、思わせぶりな文献上の記載の存在の発見だけに止まりました。それでも前年度にピガール通り77番地(多分ピガール広場11番地)で、翌年ピガール広場1番地に移り、再びピガール広場11番地に移るという事は、二重の間違いで、1番地ではなく11番地だったのか?アトリエだけを移っていたのならまだしも、家族を連れ、家族の荷物と共に渡り歩くのは、それ程離れていないとはいえ、毎年では大変でしょう。前記にあったシテ・ピガールに家族の住居を借りていたのか、このピガール通り1番地は家族の住所だったのか? ウーブリエのカタログ登録住所が気になるので、繰り返し検討します。1863年バリエール広場1番地(後のピガール広場1番地)から1864年ピガール通り77番地(ピガール広場11番地の隣、或いは同一住所)、1865年も同じ、1866年ピガール通り1番地(印刷ミスか?デッサンの登録住所はピガール広場1番地)、1867年以降はピガール広場11番地です。ウーヴリエはピガール広場に2箇所、1番地と11番地にアトリエを借り、一時期2ヶ所を同時に借りていたとも考えられます。モネの住所記載を間違いとするかどうかの確定要素(当時まだピガール通り1番地に彫刻家ピガールのアトリエが残されていた可能性があり、ノルマンディーへの発着駅サン・ラザールの直ぐ傍で、カミーユの実家からも遠くないそこがモネとカミーユの愛の巣だったかも知れず、そこはウーヴリエの家族が住んでいて、空いたアパートがあり、モネに紹介したかも知れないと推理、想像は限りなく可能で、切り)がありませんが、評論家トレが、〔先年に「オリンピア」でスキャンダルになり、この年はサロン展に落選したマネの画の事を殊更取り上げて書いています。続いて「ちょっと待って、もう一人、ほら、マネ(この年落選しています)と良く似た名の彼より幸福な若いクロード・モネ氏がいる。多分近いうちに彼の描いた『カミーユ』の緑の絹の裾を引きずる服を着た、ポール・ヴェロネーズ(パオロ・ベロネーゼ。十六世紀イタリア、ベネチア派の画家)の描く布地の様な輝かしさがが(サロン展に)受け入れられた事が話題になるだろう。私はこの才能にあふれた画家が四日でこの画を描いた事を世間に暴露したい。・・・・・ 彼は又、大きな木に夕陽が照っている夕方の印象の『バルビゾンの並木』も描いている。本当の画家なら描きたいと思ったものは何でも画に出来るものだと彼を見るとそう思えてしまう」〕−自著より抜粋−と書いています。この時に落選したマネの作品が評判をとっていると言うのでマネが見に行くと、モネの作品であり、マネが非常に怒ったと言うのをモネが聞き、以後、クロード・モネとサインするようにしたと言うエピソードがあり、それを切っ掛けにしてか、マネはモネに目を掛けるようになったとか。いろいろありますね。バジールが「伯母ルジョンヌ夫人にお金を借りた」ことを書いているのは前出1866年1月15日の手紙です。15日前から新しいアトリエに移っているともあり、となると、モネが4日で仕上げた「カミーユ」はどこのアトリエで描かれたのか?常識的に考えると、移った後のアトリエと思われますが、とすると、モネはピガール通り1番地で仕上げた事になります。しかし、文献上確認できません。ただこのカミーユが着ている緑の絹の服はバジールが自分のモデルのために借りた服をモネに又貸ししたもので、それもあってモネは4日で仕上げなければならなかったわけで、ピガール通り1番地ならば直線距離で800m、ピガール広場1番地とすると約倍の距離になります。考えると、あまりアトリエ同士の距離は関係ないと思われ、この検討は文字通り、検討(見当)違い。通りか広場かの判定に役立つかと思いましたが、だめでした。何れにしろ、ピガール広場1番地と11番地に集合アトリエがあり、バルビゾンに家のあるディアズのアトリエがピガール広場1番地にあった事実と、この「写真」査定結果と合わせると、何かを示唆している可能性を感じます。直接、シャイイ村での撮影に関係なさそうなので、これまでにします。
 と言いながら、あまり想像をたくましくせず、単純に考えたほうがよい気がしてきました。つまり、印刷ミスで、ウーヴリエもモネも住所登録はピガール広場1番地で、バルビゾンで知り合ったので、ウーヴリエがアトリエを貸したとなると、ウーヴリエの査定に非常に有効な資料になりますが、バルビゾンに家のあるディアズが使っていない時期に、モネに臨時にアトリエを貸し、モネは「カミーユ」を仕上げた?しかし、これらの事がなにも記録に残されてないのが不思議です。というものの、モネは大画面「草上の昼食」をシャイイで描いていて、それを仕上げる事ができず、サロン展に急いで仕上げた「カミーユ」を出品している事情、そこにいろいろ掘り下げれば複雑な問題、経済的なことも含めてあったようで、この部分を解明できれば、若い時のモネに関してかなり面白い研究成果が得られると思います。興味がある人は挑戦してみてください。それは別にして、このサロン展の登録住所に関してどんな真実が存在するのか?残念ながら現在までのところ、まったくわかりません。

ということで、とりあえずまとめると。
 ブーダンの借りた家を真ん中にして、地図上で、ドガの家まで200mなく、ウーヴリエの家まで300mくらい、カルスの家までは800m〜900mくらいです。当然、ルジョンヌ少佐の家は同じ通りなのでブーダンの家からそれ程離れていない筈です。ピガール通り66番地のアトリエを含めると、ドガとウーブリエをはさむ事になり、ブーダンとドガの関係は文献上見当たりませんが、ドガを除けば、ブーダンは他のすべての画家との繋がりがりを検証でき、やはりブーダンが鍵かもしれません。それより、ルジョンヌ少佐と友達で、ブーダン、モネの面倒も見た、ミレーとも、ウーヴリエとも知り合いと思われるバルビゾン派で最初に画家として成功者になったトロワイヨンが要かもしれません。それでもドガが抜けてしまいますが、ドガはマネと親しく、ルジョンヌ少佐の晩餐会にドガの親友も参加している事は文献で確認され、ミレーを賞賛するルジョンヌ少佐の存在がやはり大きな比重を占めるのでしょうか?

ルジョンヌ少佐の家の番地がわからないので、地図に大通りの所在を緑色で示します。ウーヴリエ、ブーダン、ドガが住んでいた場所を赤点1、3、4で示します。カルスの住所を2箇所を赤点で示します。左下の黒く見えるところが、オペラ座です。地図の上部がモンマルトルの丘で、サクレ・クール寺院があります。
地図上に4人の住所を記載
【 地図の説明 】
緑線 : テュルデン大通り、ルジョンヌ少佐の家の通り
赤丸: ウーヴリエ(とディアズ)の住所
           バリエール広場1番地
   : カルスの住所
      1861年 左、マルタン画廊
      1864年 右、ヴィクトワール通り46番地
   : ブーダンの住所 (右)テュルデン大通り27番地
    (左)ピガール通り66番地、実はバリエール広場9番地
    : ドガの住所  ラヴァル通り13番地
 以上は、ルジョンヌ少佐の家の場所(緑線)と
 判明している4人の1863年の住所(赤点)です。
丸A: 十九世紀ロマン派生活美術館
   B: グーピル画廊(ゴッホが1875年しばらく勤める)
   C: ドラクロワのアトリエ、1857年まで
   D: テブート通りのオルレアン中庭
      ショパンとジョルジュ・サンドが住んでいた
青丸E: ミレーが4年間住んだロッシュショアール42番地2
   F: ディアズの1846,7,8年の住所モントロン13番地
緑丸G: トロワイヨンが1857年に建て、1865年に没した家
   H: ルソーのアトリエ、シテ・マルシェルヴ9番地
丸 I : ギュスターヴ・モロー美術館
点線: テブート通り、ルソー、トレの住んだ通り
青点線: ラフィット通り、画廊街になる
赤 ×: ブーダンが1869〜1877年まで住んだ
      サン・ラザール通り31番地
赤 △:  カルスのロッシュアール70番地
橙丸 J : サンシエの住所、フォンテーヌ通り6(下)と19番地
地図の左上        : ムーラン・ルージュ
    左中の教会    : 聖トリニテ教会
    左下の黒い部分  : オペラ座  
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後で、いくつか加えたためにわかりにくくなってしまいましたが、モンマルトルの麓に芸術家達が集まっていたのがわかると思います。オルレアン中庭の近くに現モロー美術館(建築家のモローの父親が建てた自宅とアトリエをモローが生前に美術館に改造し、国に寄贈したものですが、今回改めて訊ね、その大きさに驚きました。)があり、ロマン派生活美術館の通りにグーピル画廊がありましたし、トロワイヨンの家を建てたヴィオレ・ル・デュックが自分の為に建てた家がコンドルセ通りに現存しています。音楽家もベルリオーズ、ビゼーなどの家は現在表記されています。年代が少し若く、隣の8区になりますが、直ぐ近くに、マネのアトリエ、カフェ・ゲルボア、ルノアールや、モネが泊まりこんだバジールのアトリエ、モネが移り住んだ場所、マラルメの家やゾラの家などがあります。元に戻り、9区で付け加えると、サンシエはフォンテーヌ・サン・ジョルジュ通り19番地の後6番地にアパートがあり、バルビゾンに移転したミレーはパリの連絡先をそこにしていました。パリに出た時は彼のアパートに泊まったのかもしれませんし、ルソーのところにも泊まれるでしょう。ピガール広場にはカフェやキャバレーができ、仕事を終えた芸術家達が集まり、喧々諤々自分の考えを述べ、意見を戦わせたことでしょう。しかし、それぞれに個性があり、気の合う人合わない人がいて、親しく付き合ったり、まったく交流しなかった人たちもいたことと思います。また、交流があっても資料として残らなければ、後世に語られず、出会いもなかったと思われるでしょうが、モンマルトルに多くの芸術家が集まったのですから、多くの芸術家が出会い、言葉を交わさなかったとは思われませんが、繰り返しますが、資料として残らなければ、何も語られることがありません。

地図で見ると、パリからミレーを訪ねた、モネとバジールを除いた面々は、直ぐ近くに住んでいたことがわかります。とすると、この4人は連れ立って、シャイイ村に来たと考えられます。追記2006/10/23:6章に追記しましたが、モネとバジールはシャイイに滞在を続けていたとした方が話の収まりがいいようです。】

話題を少し変えて、他の人達が飲み終わって、写真を写す態勢をとっているのに、コップを手にしている二人の若者の行為を分析してみましょう。
 まずは、この場に遅れて着いたのではないかと考えられるのが一つです。追記2006/10/23シャイイに2人が滞在していたとすると、以下の文章が少しおかしくなるので、書き加えます。画を描いていた為に遅れてしまったのか、シャイイに滞在していたが、サロン展と落選者展を見にパリに行き、帰りに、彼らと合流し、】パリからの出発は同じ汽車でしたが、ムーラン或いはフォンテーヌブローの駅から、4人は先に馬車でシャイイに着きましたが、モネとバジールはいつもの習慣で運賃を節約、ムーランで降り、徒歩のため遅れ、到着した時には既にバルビゾン村からミレーもシャイイ村に来ていて、撮影準備も整い、せかされ、席に着きましたが、晴天でかなり暑く、それが、撮影時に、我慢できずにのどの渇きを潤す行動に現れているのかもしれません。二人の靴が土ぼこりで汚れて見えるのもそのためではないでしょうか。奥のミレーの靴と比較してください。
 今ひとつは、茶目っ気から、写真に臨場感を出すために、自然に振舞った。或いは、画家の卵として、写真には批判的で、わざと動いたのではないか、等々考えられますが、果たして真相は?
コップを手にする若者達
コップを手にする二人の若者


モネとバジールの靴の汚れ
モネとバジールの靴の汚れ

前記したように、住所から推理して、ルジョンヌ少佐の家で主宰されるサロンの集まりから、ミレーを訪ねた、ありそうな物語にしてみましたが、裏付けになる確かな文献がないので、年代をさかのぼって、もう少し納得できる、状況証拠を集めてみましょう。

1846年、ミレーが3度目のパリ挑戦でカトリーヌと住んだアパートが、ロッシュショアール通り42番地で、カルスの1846年の住所はビヤンフェサンス通り23番地の2、隣の区で、サン・ラザール駅の近くで、モンマルトルの麓とはいえませんし、カルスとミレーの交流の有無は文献上見当たりませんが、絶対無かったとも言えず、画題の類似から、何らかの関係を想像する事は可能ではないかと思いますが、はっきり交流があったと肯定はできません。テーラー財団もできたばかりで、ル・アーブルでミレーに手ほどきを受けたブーダンも画を本格的に描き始めたばかりですし、ルジョンヌ少佐(第二帝制期にパリの参謀本部詰め近衛将校になっています。この肩書きから番地がわかるかと調べましたが、今のところわかりません。)のサロン(晩餐会)もまだありませんでした。ウーヴリエは既に、1831年にサロン展で2等賞を受け、1843年に1等賞を受け、サロン展で公認された画家になっていました。従って、1835年に3点が入選してから、定期的にサロン展に作品を送っているカルスと知己であったかもしれませんし、当時、落選者王と渾名を取っていたとはいえ、1849年にサロン展で1等賞を受けた後、定期的にサロン展に出品し、モンマルトルの麓にパリのアトリエとアパートがあったルソーとはサロン展を通じても、近所である事でも、知己であったと想像できます。1830年からサロン展に出品し始めたトロワイヨンに付いては前記しましたが、1844年にサロン展で受賞したディアズ、彼を画の道に誘い込んだデュプレ(この3人は磁器の絵付けから画家の道に入っています)、特にデュプレは1850年にリラダンに引込むまでピガール広場にアトリエがあったとあり、彼らは同じ界隈に住む隣人です。サロン展カタログで調べると、同姓異名の画家がピガール広場1番地にいましたが、ジュール・デュプレは直ぐ近くのフロショ大通り、ブレダ通り28番地と併記してあり、ブレダ通りは現在存在しない通り名ですが、ウーヴリエは1846年新ブレダ通り23番地、1847年ブレダ通り8番地で1849年にブリュエール通り22番地に変わったので、数年間は間違いなくデュプレとは同地区の住人であった筈です。それにしても、通り名が変わり、区画整理され、同名の画家もいて、後世の美術史家が、文献で調べて書いていても、検証をしないと間違う事もあるでしょう。気を付けねばならない問題です。ここで俄然、ピガール広場に多くのアトリエが存在していた事が想像され、調べると、ピガール広場1番地にディアズの為にアトリエが建てられたとありますが、地図に記載したように、ディアズの1848年のサロン展カタログの登録住所はモントロン通り13番地になっています。これ以後サロン展に出品していないので、ディアズが何年にそこに移ったか正確にはわかりませんが、「キューピットに愛の矢を射込まれて悩むニンフ」1851年をそこで制作したあり、1851年には既にディアズはピガール広場1番地に移っていたことが確認できます。今一人、ミレーと一緒にバルビゾンに移る、シャルル・ジャックが、1840年頃からジョルジュ・ミッシェルの影響を受けて、モンマルトルの風景を描き始め、1845年に版画がサロン展に入選し、住所が、サロン展カタログにロッシュショアール通り46番地とあり、パリ育ちで社交家と思われる彼は、1846年に新ブレダ通り23番地に住所を移した、パリっ子のウーヴリエと知り合っている可能性は充分あると思われます。

 ちなみに、彼らの生まれた年を記すと
   ウーヴリエ 1806年  ディアズ 1807年  トロワイヨン 1810年  カルス 1810年
   デュプレ   1811年  ルソー  1812年   ジャック    1813年  ミレー 1814年

・ これにより、近い年代の画家たちが、モンマルトルの麓に集ったのがわかり、ウーヴリエが最年長で、ミレーが最年少であるのも興味深い問題です。尚、ブーダンはミレーの生まれた十年後に生まれているので、外しました。

彼らの関係を調べているうち、、前記の関係を裏付ける興味深い史実を、バルビゾン派美術館管理者カイユ女史のWebページ「ミレーの伝記」に見つけました。

Apres un court sejour au Havre ou il continua ses portraits, ils partirent pour Paris en 1844 ou ils trouverent un logement au 42bis de cette rue Rochechouart qui prefigurait deja le celebre ≪ bateau-lavoir ≫ montmartrois de 1904 car une nombreuse colonie d'artistes et d'hommes de lettres y vivaient deja : Charles Jacque, Diaz, Troyon et beaucoup d'autres. De cette epoque datent ses premieres rencontres avec ses futurs compagnons barbizonnais.

「肖像画を描いた短いル・アーブルでの滞在の後、1844年パリに向けて出発し、1904年代のモンマルトルで有名な「洗濯船」(特にピカソのアトリエがあったので有名)の前兆を示す、多数の文学や美術の芸術家集団 : シャルル・ジャック、ディアズ、トロワイヨン、その他多数の芸術家が生活している場、ロッシュショーアール通り42番地の2に住居を見つけました。その時に、後のバルビゾンでの仲間の最初の付き合いが始まりました。カッコ内筆者添付翻訳。前記のフランス語に特殊文字が表示されていませんが、文字コードのせいですのであしからず。

前記したように、ミレーが3度目のパリで、ロッシュショーアール通り42番地に住み、シャルル・ジャックと隣人になったことまでは調べていましたが、其処に芸術家達が集団で住んでいたことまでは知りませんでした。上記の記述によると、シャルル・ジャックは将に隣人、同じ建物だったわけで、加えてディアズもトロワヨンも隣人だったわけです。となると、かなり面白い話に展開して行くように思われましたが、カイユ女史が洗濯船を例に出したので、芸術家の集合アトリエが42番地の2に存在したのかと想像しましたが、サロン展カタログで調べる限り、周辺に芸術家達が集まっているという意味のようで、一箇所に集まったわけではないようです。確認の為に42番地を訪ねましたが、42番地の2は表示になく、建物の右端の入口はそのまま会社の入口になっていました。建物が当時のままかわかりませんし、中を覗いて見た限り、画家専用のアトリエはありませんでした。従って、考えられる事は、普通のアパートの一室をアトリエとして使っていたか、当時、この近くに画家の集合アトリエが幾つかあり、ミレーは誰かのアトリエを間借りしていたのかもしれません。その意味で、カイユ女史の言う、芸術家集団の存在が、アトリエを中心に存在したのかもしれません。残念ながら当時の面影を探すのは難しい気がします。例えば、ミレーがパリにコレラが蔓延し、子供への感染を恐れてバルビゾン移転を考えた、そんな生活環境を、今のロッシュショアール通りに見る事ができません。古いモンマルトルの丘の二葉の絵葉書で当時のモンマルトル界隈を想像してください。ただし、前記したように、モンマルトルの丘の方はかって城門の外なので、市街になっていず、開発が遅れているのは当然で、最適な参考資料ではありませんが、城門が取り払われるまでは、モンマルトルの麓も場末であったので、城門が取り払われ、モンマルトルの丘も市内に組み込まれたこの絵葉書の撮られた時代の様子とそれ程違わないのではないかと思います。

古いモンマルトルの道
当時のモンマルトルの丘の道
ムーラン・ドゥ・ラ・ギャレット
現存する風車の当時の姿

 時代が少しさかのぼりますが、ピガール広場から少し下ったシャプタル通り十六番地のアリ・シェフェール(1795年生まれ。オランダ出身)のアトリエと自宅が現在ロマン派生活博物館(上の地図に記載。二階家で、アトリエと別の母屋があり、中庭があり、中庭に面して別のアトリエもありで、当時の面影を少し残している、貴重な建物であると思います)になっていますが、サロン展にルソー(1812年生まれ)が落選した1836年、シェフェールは自分のアトリエでルソーの作品の展示会をしています。1844年にトレ(彼は1838年の時点でテブート通り、ピガール広場から5〜600m程麓を下ったあたりに住み、ルソーの隣人としての付き合いがあり、フォンテーヌブローの森の伐採に保護を訴える運動にルソーに協力しています)がルソーへ手紙を書くと言う様式で、サロン展の批判を書いています。1846年にはルソーのはじめての伝記を書く事になるサンシエに出会っています。ボードレールのデビュー作「サロン展1845年」の美術批評にも、翌年の「サロン展1846年」にもルソーの事が書かれ、率直さ、一様でない新しさ、大いなる魅力、制作の正確さを賞賛しますが、サロン展批評に出品していない画家を賞賛するのは前年のトレの批判を踏まえての事でしょうか。この少し前に、パリのアトリエをピガール広場のデュプレの隣の彫刻家クレサンジェールのアトリエの二階に移します。同時期ジョルジュ・サンドもピガール通りに家を借り、息子モーリス、娘ソランジュ、それに姪のオウグスティンヌ・デュパン(ブロウト?養女と言う文献もあります。)と共に住み、サンドの娘を通してルソーはオウグスティンヌと知り合い、婚約寸前まで行きますが、ショパンからサンドに彼女とサンドの息子との間が告げられ、それは娘ソランジュの嫉妬から出た中傷であったとの事ですが(一説に破談はデュプレが原因とも)、従って、傷付いたルソーはこの頃借りたバルビゾンの家に逃げ隠れる様に住む事になり、年表に1847年バルビゾンに定住と記されます。その後パリのアトリエをシテ・マルシェルブ9番地に移したようです。
 【 テブート通りを歩いて、興味深い掲示板を見つけました。】             地図へ
パリ歴史掲示板
パリ歴史掲示板
デブート通り80番地の入口
デブート通り80番地入口

ショパンのアパート入口

オルレアン中庭の噴水
ジョルジュ・サンドの住んでいた場所の表示
サンドのアパート入口
テブート通り80番地にある、オルレアン中庭の5番に1842年ジョージ・サンドが住んでいて、その時、9番の1階にショパンが部屋を借り、1847年に別れたと記載されていました。となると、ジョルジュ・サンドがピガール通りに移るのは1847年で、ルソーがバルビゾンに引きこもるのが同じ年とすると、ルソーの恋はあまりに短かったことになりますが、サンドの伝記に1847年2月、彫刻家クレサンジェールがサンドの胸像を作ることになり、4月サンドの郷ノアンに行き、7月にクレサンジェールと諍いをしたとありますが、彼のアトリエの二階に移り住んだルソーとは無関係な話なのでしょうか。胸像の話はサンドだけではなく、娘のソランジュの胸像も作りたいとクレサンジェールが申し入れたという事で、彼にソランジュは惚れ込み、既にしていた婚約を破棄し、彼と結婚したということで、ショパンのデスマスクを取ったのが彫刻家のクレサンジェールだという話につながります。(クレサンジェールの彫刻は1847年のサロン展でスキャンダルになった、当時ヨーロッパ一の金持ちの息子モッセルマンの愛人サバチエ夫人をモデルにした「蛇にかまれた女」としてオルセー美術館の1階の中央に置かれた彫刻の一番手前の左に見ることができます。プティ・パレ美術館にも別の同様な作品があり、依頼者に渡す作品と展覧会に出品する作品か、二点制作したようです。となると、前記サンドとの絡みがサロン展での彫刻のスキャンダルと同時期になります) ソランジェは結婚した後で、オウグスティンヌとルソーの中を嫉妬して、仲を壊したとか、尋常な性格ではないようです。かなり複雑な話が交差しているようです。或いは、テブート通りにルソーが住んでいた時に、サンドがオルレアン中庭の5番に移り住んで来て、ルソーと知り合い、その時、サンドの姪と恋仲になったのかもしれません。そして、ピガール広場に移った後、オウグスティンヌとデュプレが出会い、破談の原因が生まれたのかもしれません。サンドは姪とルソーは不釣合いと思っていたようです。たしか、サンドはその後、ドラクロワと共にバルビゾンにルソーを訪ねたと記録されていますが、男装の麗人とも言われたサンドの周りの人間達にうぶなルソーが翻弄された感じがします。ルソーはバルビゾンで、養生に来ていた同郷の娘 〔この挿入を迷いましたが、長年の疑問に、少し回答を得たような気がするので、それはモネの奥さんになったカミーユと何処で出会ったかですが、文献上に見付けることはできません。モネが誰にもカミーユとの出会いを話さなかったからでしょうが、父親も、伯母も、ブーダンまで、カミーユの事を認めていない理由は何なのか、結局、養生する必要のあった若い娘を稼ぎのない若い画家が抱え込む事に賛成しなかったのではないかと、結果からも、若死にしたカミーユの健康に問題があったのではないかと、推測しましたが、何処にもそんな資料はありません。ただ、ルソーの話から、モネもルソーと同じように、バルビゾンに養生に来ていたカミーユを見初めたのではないか(パリから近いフォンテーヌブローの森、シャイイ村かバルビゾン村かに養生施設があったのかもしれない。【2011/11/30】第4章の追記に、ルーランからバルビゾンまでの徒歩行の途中で、シャイイ村の手前に立派な養生施設が当時から存在していたことを知り、ルソーと奥さんの出会いの検証ができ、モネとカミーユの出会いももしかして)と想像しただけです。ルソーの奥さんはブザンソン出身で、カミーユは既にパリに両親と移り住んでいましたが、出身はリヨンです。確かモネの父親もリヨン出身です。その意味ではルソーもモネもパリ生まれですが、親の出身が相手と同郷という組み合わせです〕 を見初め、1848年二月革命の最中、パリで彼女とルソーが結婚しました。ルソーがパリに再び来るようになった1850年頃、デュプレは、パリから25〜6キロ程北のオーヴェールの近く、リラダンに引込みました。これからすると、ルソーのサロン展落選に抗議してサロン展出品をやめたほどの間柄であったデュプレがバルビゾンとは反対の方向のリラダンに移り住んだ事実は何かを語っているように思います(デュプレを調べると、1841年にルソーと一緒にリラダン森のはずれ、パリ寄りの村モンスールトに住んだとあり、1845年に少しお金ができたのでデュプレはリラダンにアトリエを借りたとあります。とすると、ルソーがフォンテーヌブロー森のパリ寄りの村バルビゾンを選んだ理由の一因に、リラダンとはパリをはさんで反対側でよく写生に出かけていた場所であったからでしょうか? となるとやはりデュプレと何かがあったのではないかと思われますが、或いは単なる好みの違いかも知れません)。年代は将に第二共和制で大統領に選ばれたルイ・ナポレオン、ナポレオン一世の甥が皇帝ナポレオン三世になる時期、デュプレは彼等と折り合いが悪かったという事情もあったのかもしれません。ルソーはナポレオン三世に1865年コンピエーニュ城に招待されています。つまり、ナポレオン三世とは折り合いが悪くはありません。クールベはナポレオン三世下の2度のパリ万国博覧会に会場内美術展とは別に個人で展示館を設営し個人展をし、サロン展に出品をやめていたデュプレはルソーが審査委員長をした1867年の2回目のパリ万国博覧会の美術展だけには出品しました(この2度目にマネも母親からお金を借りて、展示館を設営し、個人展をしています。それが必ずしも成功したとは言えず、印象派展の不参加、サロン展への執着につながっているのかもしれません。話が流れたので戻します)。個人的にデュプレの男気を感じますが、ルソーとの関係でそれが裏目に出たのかもしれません。クールベが、1870年帝制末期に、リラダンに隠棲したデュプレを訪ね、つかの間の憩いの時間を共有したのは二人が同じ資質だからでしょうか(クールベもホイッスラーの彼女と問題を起こしています)? その後、パリ・コミューンに参加したクールベのバンドーム広場の円柱引き倒しの責任を問われた裁判でデュプレはクールベを弁護をしています。ブーダンはクールベに親近感を持っていたことは前記しました。ドービニーが、継母の郷里オーヴェールに移り住む気になったのもデュプレがリラダンにいたからかもしれません。それにより、ドービニーの竹馬の友、彫刻家のジョフロワ=ドショームがドービニーが移り住んだ翌年、オーヴェールの隣村、バルモンドワに移り住み、前記したように、そこが、ドーミエの終焉の地になりました。このように、当時の美術家達のつながりを想像すると、文献には現れませんが、この「写真」にも物語があるように思いますが、果たしてそれは?

ここで、改めて、ロッシュショアール通りの周辺と同じように、ピガール広場にも美術家達が集まり住んでいたアトリエ群が存在した事が知れます。現在のピガール広場に唯一、薬屋の2階3階(下写真右)がそれらしい北側に面したガラス張りの全面窓が見られますが、天井の高さがあまりなく(それでも隣家と比べると、少し高いのが確認できます)、年代的にどの時代のアトリエか、かなり古い時代のままかもしれません。その奥にも、クリシー大通りにも、こちらは本格的な芸術家用のアトリエ群が現存しているのが観られます。ウーヴリエのアトリエがあった11番地は現在閉鎖されたディスコティックで、面影はありません。確か、印象派の集まりが、クリシー広場の近くのカフェ・ゲルボワから、ピガール広場のカフェ・ヌーヴェル・アテネに移ったとありましたが、残されている写真を手に、ピガール広場を訪ね(話が前後しますが、訪ねたのは「昔の道路辞典」を見る前です)、11番地と道を隔てた9番地にあったことがわかりました。現在取り壊されて工事中です(この後に、ブーダンがピガール通り66番地に住んでいたWebサイトを見つけましたが、それが直ぐに、ピガール広場9番地とはつながりませんでした)。又、ピガール広場の向かって右の角にある13番地のカフェの建物を建築した年が1879年と刻まれていたのを確認、1870〜80年代に、この広場の一部が改造された事がわかり、印象派の連中は新しくできた地域のカフェに場所を移したと想像されます。ピガール広場7番地には「死んだねずみ」(ねずみは古今東西を問わずいろいろなものに譬えられるので、その意味するところはわかりませんが、下左に掲載の「1906年消印の絵葉書」の右端の建物の1階に)と言うキャバレエがあり、そこが印象派たちより一世代上の人たちの溜まり場だったようです。ウーヴリエがルーアンで亡くなったのが1879年、1873年以降はサロン展出品も控えたとすれば、既にルーアンに引っ込んだのかもしれません。時代の移り変わりを象徴しているようです。

ピガール広場の彩色絵葉書、消印1906年
1906年消印のピガール広場絵葉書。左端の建物の2階の高い窓を見ると、画家のアトリエがあることが分かり、ディアズのピガール広場1番地のアトリエであったと思われます。
ピガール広場の写真
1900年頃のピガール広場絵葉書一部



(規制事項の記載がないので、Webサイトより借用しました。)
薬屋の上のアトリエ
現在ピガール広場に残るアトリエ

時代を戻します。
 ディアズは1844年のサロン展での受賞後に画が売れるようになり、サロン展への出品はやめましたが、ミレーはそのディアズの紹介で、画廊で画が売れるようになったとあり、これはディアズの影響もあるとみられる「華やかな手法」といわれる画であったと思われます。1846年にサロン展のために描いた「女性達に誘惑される聖ジェローム」をドラロッシュの教室で兄弟子に当たる一つ年下の(ブーダンの奨学金の為に推薦状を書いた、後にマネの先生として知られるようになる)トマ・クチュールは激賞し、「クチュールはこれを賞賛し、画家仲間にこの『驚くべき作品』を見に行くようにと言って歩いた。」(サンシエの「ミレー」伝)というのが事実なら、この時ウーヴリエがミレーの「驚くべき作品」を見に来た可能性は充分考えられます。しかし、この作品はサロン展に落選しました。という訳で、4年間に満たないモンマルトルの麓での生活に、長女、次女、長男が次々生まれ、その間に、ウーヴリエとミレーとの出会いがなかったとは考えられず、三人共に隣近所と言う事で、クチュールに限らず、社交的と思えるシャルルに紹介されウーヴリエと知り合ったとも考えられます(前出、カイユ女史の文章にあるその他多数の芸術家達の中にウーヴリエもいた筈ですが、美術史に残らないため名が出ず、「画歴半ばからバルビゾン派の影響を受ける」とあるので、近くに住んでいた事が判明している以上、よほど偏屈でなければ、ウーヴリエはこの時期にミレーと出会っていることはほぼ確実でしょう)がしかし、サロン展で華々しく活躍しているウーヴリエが、この時期に既にミレーと親しく交流していたことを証明する文献は見当たりません。或いは、すでに売れるようになっていたディアズがミレーに画廊を紹介したので、このモンマルトルで、ディアズ、ルソーを通して当時売れていたと思えるウーヴリエがミレーと懇意になった可能性も考えられます。すべて状況判断ですが、充分、想像できる事です。翌年、ミレーは落選した画布を裂き、一部を使って描いた「羊飼いによって木から降ろされるオイディプス」が入選しました。翌1848年の二月革命で短命な第二共和制になり、この年のサロン展は無審査で、それに「ユダヤ人のバビロンの捕囚」と「簸る(ひる、箕(ミ)で、穀物などをあおって屑を除く。―広辞苑より―)人」を出品。この「簸る人」がミレーが農民を扱った画の最初です。この画はパリ市民代表・二月革命の立役者の一人、ルドリュー・ロランに500フランで購入され、この後、シャルル・ジャックの仲介で、新政府から画の注文があり、それには、前記油彩画をルドリュー・ロランに推奨した、ドーミエの若い時の画家仲間・(第二共和制の期間のみ)ルーブル美術館管理者になったジャンロンの意向が働いたわけで、その額1800フランをジャックと分け合って(カイユ女史のWebサイトより)、ジャックと共にバルビゾンに移転するわけです。
ミレーに画廊を紹介した、既に画が売れていたディアズはその後バルビゾン村の大通りに家とアトリエを持ち、村で一番人気ある画家になりましたが、墓は、ルソーやミレー、サンシエとは違い、立派なものを、モンマルトル墓地に残しています。それは、ディアズもルソー同様にバルビゾンだけでなく、パリのモンマルトルの麓に家があったことの明確な証でしょう。サロン展のカタログによると二月革命によって審査のない展覧会に5点出品し、その住所はモントロン通り13番地でした。その後、画が売れるディアズがピガール広場1番地にアトリエを建てたと書かれている文献を見つけましたが、南仏マントンでマムシに噛まれて1876年に亡くなっていると記載され、後年は南仏で療養し、そこで亡くなりましたが、10歳の時と同じ目に遭って亡くなったとは少し妙なので、子供のころの傷跡が原因でと理解した方がいいのか? 死因に関しては伝聞をそのまま記述する場合があり、要注意です(前記死因に疑問がある記述から想像して、彼も梅毒だったのかもしれません。但し、まったくの想像です)。それにしても、南仏で養生できるディアズは、間違いなく、トロワイヨンの次にバルビゾン派で生前に成功した画家の一人になっていたようです。
モンマルトル墓地のディアズの墓


ディアズの墓碑名

以上のモンマルトルでの繋がりが、後にバルビゾン村に移転したルソー、ディアズ、ミレー、シャルル・ジャック、加えてデュプレ、トロワイヨンらが美術史でバルビゾン派と称されるようになるわけですが、これらから、前記した、テーラー財団の女史が最後に見せてくれた、「十九世紀の風景画家事典」と言うタイトルの大判の本に、ウーブリエの履歴が油彩画と共に記載され、その中の、「彼の経歴の半ばから、バルビゾン派の影響を受けた」とある、唯一見つけられた、この「写真」に写っている裏付け資料により、ウーヴリエとバルビゾン派の交流がこのモンマルトルの麓から始まり、ミレーがバルビゾンに移転した後も続いたことがこの「写真」によって浮かび上がってきます。
 そして、テーラー財団の名簿に載っていた、ウーヴリエとカルスとブーダンの繋がりがどうして生まれたのかがかわかれば、ほぼ、この「写真」の人物をウーヴリエと査定することに賛意をいただけるのではないかと思います。

テーラー男爵は共済組合の組織を立ち上げた人でした。まず、演劇関係、次に、音楽家、美術家、商工業関係、そして最後が、教師でした。美術家の内容は、画家、彫刻家、建築家、版画家、デザイン家です。(実際、彼の墓は各組合が石を積んで囲っています)、特にテーラー財団の所在地近くに居住しているので、1870年代に三人が共済組合に加入していたのはごく自然でしょう(ちなみに、フランソワ・ミレーの名はなく、弟バプティストの名があり、バルビゾンを離れ、オワーズの住所でした)。その中で、ウーヴリエが特別なのは、男爵の召使の一人がウーヴリエの代親でテーラー男爵に名付け親を依頼し、名の一つジュスタンを貰ったわけで、ウーヴリエの名付け親と言う事で、画家になったウーヴリエに目をかけたのかもしれません(まったくの想像ですが、シャルル十世の肖像画の受注に関して、テーラー男爵の推挙を感じます)。名付け親(フィユール)と言う言葉がわからず、聞いたところ、説明してくれました。ブーダンはミレーに油彩画の手ほどきを受け、カルスはミレーと画題を同じくし、ブーダンとカルスは、美術学校でカルスと同じ師コニエに学んだ同僚オンフルールの画家ドゥブルグを通じて知己であり、カルスは1835年以来サロン展に定期的に作品を送っていたので、サロン展常連のウーヴリエとも知己の間柄であると考えられます。ちなみに、1855年のパリ第1回万国博覧会と同時に開催されたサロン展のカタログで住所を調べると、ウーヴリエはラ・ブリュエール通り22番地で、カルスはフォンテーヌ・サン・ジョルジュ通り38番地の2とあり、地図で見ると400m位の距離で、共に展覧会に出品した、師は違いますが同じ美術学校出身の画家ですから、それなりの付き合いはあったのではないかと思われます。カルスの初期の作品と思われる「静物画」を見ると、アカデミックな確かな技術を持っていたことが知れますが、ピサロは後年、カルスについて「彼は彼の世代の画家達(ディアズ、コロー、フロマンタン、ヨンキント、ブーダン)に高く評価されていたが、当時の一般的な好みに合わせる訳でもなく、選んだ写実的主題もクールベやミレーより十年から十五年も早く、印象派より前に色彩を多様化し、段々配色を薄くするような筆法(伝統的な半濃淡画法)を使わず農民の生活の情景などを描いたので、幾人かの愛好家を除いては公的には見向きもされなかった」戻る(このピサロの話からすると、画題が同じなのは、カルスの方が先で、ミレーが影響を受けたことになります。ル・アーブルからパリに出て来て、ジャックと隣人になったとあったので、ジャックの影響で農民を描くようになったと思いましたが、顔などを明瞭に描かない表現法はドーミエの影響が顕著ですが、新たにミレーに対するカルスの影響も考慮すべきかもしれません。考えれば、カルスの方が4歳年が上だし、美術学校も、サロン展も先輩だし、ピサロの証言もあり、当然、ミレーがカルスの影響を受けたと考える方が自然でしょう。)と語っているように、必ずしもカルスは中央美術界に受け入れられていたわけではないので、家賃が安いので画家達が集まる、モンマルトルの麓に住み、そこを拠点にして画を描いていたのではないかと勝手に想像しました。ウーヴリエは七月革命でシャルル十世からルイ・フィリップの立憲君主制になったのを契機に、風景画を描くようになり、つまり王政復古派が瓦解した後、新たな道を探さなければならず、テーラー男爵の関係で、モンマルトルの麓に身を落ち着けたのか、テーラー男爵による依頼で国内外を旅行しながら風景画を描く仕事を引き受け、その風景画を通して、近在の画家仲間としてバルビゾン派の画家との繋がりが生まれ、且つ、テーラー男爵の繋がりからブーダンを知っていたと考えられ、この「写真」が撮られた60年代にはウーヴリエは間違いなくピガール広場を住所にしていたわけですから、カルスとブーダンの三人の画家が近所同志であった事は前記したように明白で、従って、テュルデン大通りのルジョンヌ少佐の土曜のサロンで出会って、ミレーの噂が出た時、皆でミレーを励ましに行こうという話がまとまったとしても、荒唐無稽な想像とは思えませんが、改めて、想像を除いた事実だけをまとめて、再検討してみましょう。
  1. ウーヴリエの名付け親はテーラー男爵です。
  2. ブーダンはテーラー男爵の任務を受けて友達の彫刻家と共に北フランス、ベルギーで仕事をしたということです。その後も、模写の依頼や、画を買って貰ってい(ブーダンの日記より)ますが、テーラー財団には資料はないとのこと、著作に関する仕事だとしたら、25巻と言う膨大な著作、6000点とある挿画の数から、彼ら二人の名がその他大勢と処理されても不思議はありません。画の購入や、模写依頼については財団に公式な記録がないということは、テーラー男爵の個人的なものだったと考えられ、テーラー財団に資料がないからといって、ブーダンの日記にも書かれているテーラー男爵の関係は否定できないでしょう。
  3. ブーダンと同郷のデュブルグがカルスと美術学校で同じ師コニエで、同級生です。従って、ノルマンディーの農場サン・シメノンで、デュブルグを介してカルスとブーダンは知り合っています。
  4. ウーヴリエは1831年からサロン展の常連です。
  5. カルスも1835年からサロン展の常連です。
  6. ウーヴリエはサロン展カタログによると、1846年から現ピガール広場近くに住み始め、1849年から7年間、テーラー財団から11軒離れた同じ通りに住み、その後、ピガール広場のアトリエをまず5番地、その後1番地と11番地に2度変わり、最終的に1866年から1873年頃ルーアンに隠棲するまで、ピガール広場11番地に居ました。このあたり、賃貸の別の条件のいいアトリエが空いた時に、あちこち移りかわっているのかもしれません。
  7. カルスもサロン展のカタログから、パリ10区から1845年に8区のロッシェール通りに移り、1850年まで8区ですが、その後、9区のモンマルトルの麓に移り、2〜3年、ウーヴリエがピガール広場に移るまで、テーラー財団を挟んで2〜300mほどの近距離に居住していました。その後、1857年にドリア伯爵の居城に1室を貰い、サロン展のカタログに記載された住所は、パリはマルタン画廊か、ヴィクトワール通り46番地でした。1870年、普仏戦争の始まる前に行われたサロン展は移転したマルタン画廊を住所にしています。普仏戦争、パリコミューンの時はパリにとどまったと記録にあり、ラフィット通り52番地で、その後の住所でわかっているのは名簿にあったロッシュショアール70番地となり、1850年以降の連絡先は全てモンマルトル地区です。
  8. ブーダンも1863年に結婚した後、毎年数ヶ月(特に冬季)モンマルトルで過ごし、パリの住所が変わっています。ちなみに、1863年はテュルデン大通り27番地、翌年はデュランタン通り14番地で、その年の暮れにフォンテーヌ・サン・ジョルジュ通り31番地にアパートを借りています。テーラー財団の1870年の名簿はサン・ラザール通り31番地、そこは1869〜1878年までの9年間賃貸契約し、その後同じ道続きを300mほど東のラマルティンヌ通り54番地に移っています。従って、モンマルトルの麓から中腹に、再び麓に戻り、後にはノルマンディーからの終着駅サン・ラザールの近くに移り、1889年奥さんがパリで亡くなり、サン・ヴァンサン墓地に葬ったので、パリの滞在は、ずっとモンマルトル地区から離れていないことが分かります。ここにピガール広場9番地を記載しないのは、結局裏付けが取れなかったからです。
文献上はっきりするのは以上のことで、サロン展カタログの登録住所から、彼らが、長年モンマルトル地区を連絡住所として画家活動をしていた事実により、隣人のサロン展出品画家として付き合いがあったであろう事は充分考えられます。しかし、ウーヴリエに関して彼らとの個人的なつながりが文献上で明確にならない限り、過去の人間関係は想像の域を出ませんが、「彼の経歴の半ばから、バルビゾン派の影響を受けた」とある文章を唯一よりどころにして考えれば、この「写真」の人物査定の結果こそ個人的なつながりの証明になるのではないでしょうか。こういう結論の出し方を、本末転倒というのでしょうか?
 別にご意見がありましたらお聞かせください。

― まとめ ―

ブーダンがモネにバジールを紹介され、それによってルジョンヌ少佐と知り合うよりも、トロワイヨンに紹介されたと考えた方が自然に思えます。何れにしろ、ルジョンヌ少佐のソネットの存在により、ルジョンヌ少佐のミレーに対する肩入れがどんなものかも判り、それに賛同した面々が(ルジョンヌ氏の招待状を持って)不評に晒されているミレーを励ます為に、バルビゾンの隣村のシャイイの旅籠屋シュバル・ブロンに泊って画を描くと言うモネとバジールを先導させて、五月の天気のいい週末に連れ立ってシャイイに行き、ミレーがシャイイの教会での日曜日のミサを兼ねてか、旅籠屋に彼等を訪ね、それ故に、ミレーの顔がにこやかなのではないでしょうか。これは画家にとって特異な出来事であった落選者展と、後にモネがシャイイで大画面「草上の昼食」を描いた事実を基に組み立ててみた推理です。(その後ミレーに関しては教会のミサに出ていない事が判ったので、日曜のミサに参加する為にシャイイに来たと言う推測は却下。では何の為に正装しているのか?想像できる事は、この後、彼等とフォンテーヌブローの町に出るからか、或いはパリに出るからと考えたほうが理に適うので、ふっと、彼等がルジョンヌ氏からの招待状を持って迎えに来たとすれば理に適うと思い付きました) 前記の様に五月二三日にモネがアルマン・ゴーチエに手紙を書いたとあるので、当時の新聞で曜日を調べると二三日は土曜日でした。当然、翌日は日曜日。何と言う符合!しかし、ミレーがシャイイの教会に行ったのは冠婚葬祭の時のみという記録があるとの事、符合も無意味になりました。信心浅いミレーめ!しかし、日曜のミサの件は別にして、やはりウーヴリエやカルス、ブーダン達が週末に郊外まで足を運んだとした方が物語として自然なのではないだろうか。いや、ちょっと待ってください!ルジョンヌ夫妻のサロンは毎週土曜日なので、余り着替えて外出などしないであろうミレーが、招待に応じて正装をしたとなれば、正に、土曜に繰り上げた方が話が合います。これでますます、土曜のルジョンヌ夫妻のサロンの招待を兼ねて彼等がシャイイを尋ねた公算が高くなるというものです。十九世紀後半、バルビゾンまで鉄道で一時間半と言う記録があり、この時期は既にフォンテーヌブローまでは鉄道が引かれているので馬車でそこまで行き、かかってもパリまで二時間位では行けたでしょう。招待は晩餐でしょうから、時間は充分あり、その夜は友達の家(例えばサンシエ)に厄介になるとして、或いは、ルジョンヌ夫妻の招待なら、その邸に泊まれたかも知れませんし、朝まで宴会は続いたかも知れませんし、或いは散会後、繁華街に流れたかも知れません。翌日にサロン展をもう一度見て、前年に出来た東洋美術専門店「ポルト・シノワーズ」で浮世絵漁りをして、子供達のお土産などを見繕って、ゆっくり帰って来れば良いと想像しました。― 再度、既に書き上げた「写真」についての文章からの抜粋です。トレをウーヴリエに直しました。 ―  ありうる話とすれば、ルジョンヌ夫妻のサロンで出会った面々が日曜日にミレーが帰るのに同行し、シャイイに来たとも想像できます。そうならば、五月二三日の手紙からモネとバジールは既にシャイイに滞在して画を描いていたと考えられ、呼ばれた二人が、着替えもそこそこに席に着き、急いで渇きを癒そうとしたので、件の結果になってしまった、との解釈もできるでしょう。唯、そうなると、ミレーの靴だけが際だって光っているのが気になります。それを重視すれば、ミレーはバルビゾンから歩いてきたばかりと考えられ、普段は木靴を履いていたミレーの革靴に、来客への配慮よりも、これからパリに一緒に出る身づくろいと見た方が理にかなうと思います。それにしても、モネのアルマン・ゴーチエに書いた「アトリエ・グレールでの勉強を最近サボっている事の言い訳」の手紙に、この「写真」のことが触れられていない事実を如何解釈したらよいでしょうか? ミレーがパリから帰ってきた日曜日に会ったとすれば、当然この撮影は手紙の後なので書かれなくて当たり前ですが、土曜日にシャイイに皆と一緒に来て、ミレーに会ったとすれば、前日にブーダンと会ってゴーチエの話を聞いたので、シャイイでミレーに会った話や、写真の話など書いて、はしゃぐ心境ではなく、まして、撮影時に動いてしまい、注意を受け、この出来事は秘し、ひたすらグレールのアトリエをやめたわけではないと弁明に終始したのではないか?と推測しますが、如何でしょう?

ウーヴリエは、評論家トレのように最初に印象派を評価した等、今日、美術史上で取り上げられるような業績もなく、確かな画の技巧が評価され、サロン展の画家として当時は評価され、現在ルーブル美術館を初め、ヴェルサイユ美術館、フォンテーヌブロー美術館及びいくつかの地方美術館に所蔵されていますが、常連だったサロン展に出品していた水彩画に見られる、戸外での直接制作、戸外での油彩画のための習作が、将来、戸外で風景画を油彩で直接制作(ドガを除く)する印象派と称される、若い彼等に影響を与えているかもしれません。ルーブル美術館とカーナヴァレ美術館にデッサンが保管されているとあるので、カーナヴァレ美術館の版画室で四点のデッサンを見せて貰いました。建物の屋根の傾斜や運河の縁などの直線が余りに真っ直ぐなので、斜にして見て、定規を使って描いている事を確認しました。彼が建築家の師に付いていることからその影響でしょうか。それにしても、建築の図面ではない風景画に定規を用いる画家に印象派との隔絶を感じました。人物の鉛筆デッサンが一点ありましたが、特別素描力があるとも思えません。ただ水彩で彩色したものが一点ありその細密描写を見ると、一部の好事家の支持は得たかもしれませんが、デッサンを見た限り、確かに美術史上取り上げられる要素が見られる画家ではないと判断しましたが、戦前の百科事典にウーヴリエの名が記載されていたことは、それなりの仕事を評価された画家であるのも事実でしょう(インターネットで見られるので下に方法を記載しました)。ウーヴリエが1874年以降にサロン展に出品していないことを、68歳という高齢故とするか、病気になったか、1874年に印象派展が開催され、バジールの手紙によれば、ドービニーなども参加する意向を表明していたようなので、4年後にどのように参加者を募ったのか詳細はわかりませんが、ドービニーは参加せず、ウーヴリエにも参加依頼があったのかどうか?記録がないのでわかりません。娘さんがウーヴリエより先に亡くなっている話があるので、身内の不幸があったのがルーアン移転の原因か? ルーアンに移って5、6年後に没しているので、サロン展の出品をやめて、ルーアンで後輩の育成でもしていたのか?そんな事も知りたいものです。ドガは友達である官展派に属する画家達にも参加を求めたといわれますが、この「写真」に写っている、カルスとブーダンが参加しているのに、ミレーとウーヴリエは参加していません。マネも参加していませんが、ブーダンとマネはその年のサロン展に出品しています。既に大家になっているミレーは翌年亡くなり、この「写真」の人物の中で最年長のウーヴリエは思うところがあり後輩に道を譲るべく、ルーアンに引退したのかもしれません。

このホーム・ページをきっかけにトレと査定していた人物がひげの形から間違いである事が判明し、今度はひげを手掛かりに画家の肖像写真を当たり、何とかカルジャ撮影の画家達の肖像写真からウーヴリエを割り出しました。しかし、当時はそれなりに著名であると思われるウーヴリエですが、現在ほとんど知られていないので、文献上でバルビゾン派との繋がり、ブーダン、カルスとの交流の可能性は確認できましたが、そこまでで、確証にはいたりません。しかし、否定する要素も見つからず、改めて、テーラー財団で見せて貰ったナダール撮影のウーヴリエの肖像写真は、カルジャ撮影の肖像写真が少し横向きなのと比べると、同様に眉を寄せていますが、正面を向いているので「写真」の人物を見比べ易く、かなり似ていると感じられ、改めてウーヴリエであると査定してよいと思います。
国立図書館所蔵のナダール撮影のウーヴリエの肖像写真と「写真」の人物の比較
これは、テーラー財団で見せていただいた写真(ウーヴリエの肖像だけ)が国立図書館所蔵のものであると教わり、管理番号の付いたコピーをいただき、リシュリュー国立図書館に複製を依頼し、その写真と、「写真」の人物の比較を写真に撮ったものです。
 複製サービスの受け付け係は管理番号をきちんと理解していず、調べ直させられ、さらに依頼した写真のイメージが違い、抗議をしましたが、まったくお役所仕事で、気分を害しました。その上、もし、比較の為にこのナダール撮影のウーヴリエの肖像写真をホーム・ページに載せると、4倍以上の金額を再度支払わなければならないので、購入した写真を、オブジェとしてデジタルで撮り、間接的に使用してみました。ナダールの写真のイメージを13×18のサイズでと依頼したものがこれです。これでも著作権が発生するならば、連絡いただければ速やかに削除いたします。よほど掲載をやめようかと思いましたが、7.53ヨーロ(約1000円)支払ったので、抗議の意味も込めて掲載する事にしました。

「写真」の人物
「写真」の人物
解像度を落とした写真
解像度を落とした写真
ナダール撮影のウーヴリエ肖像写真
ナダール撮影のウーヴリエ

◎ どうです? この比較で「写真」の人物はウーヴリエで間違いないと思いませんか? ナダール撮影の「ミレーの肖像写真」同様にウーヴリエも眉を寄せているのは、画家の公に見せる顔なのでしょうか。これで、ミレーもウーヴリエも他の皆も、この「写真」では普段のままの顔を見せていると考えてよいでしょう。

残念ながら、ウーヴリエはそれ程現在著名ではないので、作品は公共化していず、著作権の問題が起こると思われ、画の掲載は控えます。興味のある人は独自にヤフー・フランスかゴーグル・フランス、当然、以前説明したRMNの写真画像サイトでJustin OUVRIEで検索して鑑賞してください。前記したようにサイトの様式が変わってしまったので、一応の説明をしますが、各自試みてください。上部右の白字Rechercheをクリック、画面が変わったら、左一番上のRECHERCHE SIMPLEに画家名を入力、Justin OUVRIE。左一番下のFondsでPinturesを選択。下の茶色の文字Rechercheをクリックすれば5点のイメージが見られます。(RMNの写真画像サイトは http://www.photo.rmn.fr です。)



これで一応、全ての人物の査定が終わりました。次ページを総括として、査定物語を終了いたします。


【追記】
パリ蝋人形館のある、アーケードを通り抜けて、道を隔てて続くアーケード(パッサージュ)ヴェルドーの中に、骨董店「写真ヴェルドー」があります。9区のパリ市立図書館に9区に関する資料があるかと思い、出掛けたついでに寄って、外にでている台にあったシャルトルの公共競売カタログ「19世紀と20世紀の写真」1998年12月を何気なくめくって、思わぬものを見つけました。カタログの中にアルフレッド・ルブランの旧コレクション・ミレーの肖像写真が数枚売り立てられ、三葉の複製写真が掲載されていました。その一葉がナダール撮影の例の「ミレーの肖像写真」で、その解説に「この写真は多分、ミレーの左目が覆われた写真ネガの手直し前に、試しに現像されたポジ写真であろう」と書かれていました。この競売カタログは、かなり以前に、キュヴェリエを調べていて写真のWebサイトで、彼のミレーを1855年に写した紙ネガ、カロタイプの写真(下、見開きページ右の写真)が、約380万円で売れたという記事を読んでいたので、その時のものかもしれないと思い、カタログを購入しました(済んだ競売カタログなのに価格は安くはありませんでした)。調べると、やはりその時のカタログでした。結局、この「ミレーの肖像写真」は競売に一緒に出品されたナダール撮影の写真であることがわかり、「ミレー肖像写真」のコロディオンガラスネガに修整があったかどうかを最初に取り上げましたが、耳だけではなく、左目にも問題があったのかと、何冊かのナダール写真集を改めて見直しましたが、結局、左目の問題はネガの傷、風化、劣化で、最初のネガに既にあったかどうかは判りません。原板が失われた理由は原板の劣化が進みすぎたと考えられます。従って、「この写真の傷の大部分はネガの劣化による」と書かれ、前記文章につながり、それからすると、ナダール自身によって撮影された後すぐに現像されたポジ写真には当然この劣化は見られず、直接、髪の乱れを修整した話にはつながりません。息子がどのようにして新たなネガを起こしたのか、文献に何も書かれていないので判りませんが、劣化した原版を修正したネガからネガを起したのか、父が焼いたポジ写真をもとに新たにネガを起こし、不必要になった劣化したネガを破棄したかのどちらかでしょう。返す返すも原版を残しておかなかったのが悔やまれます。いずれにしろ、同時期に撮影した他の著名人の肖像写真のネガには見られない劣化をナダールが「ミレーの肖像写真」ネガにだけ試みた修正によるものかもしれないとの推測も不可能ではないと思われますが、調べる原版ネガが存在しないので、原因究明は難しいでしょう。しかし、劣化した「ミレーの肖像写真」が競売されたと言う事から想像して、当時の収集家が何か裏の事情を知っていたのかもしれません。何故、「ミレーの肖像写真」原版ネガだけが劣化したのか、特別な事情が存在したのか? 単純に、「ミレーの肖像写真」が良く売れて、何度も現像され、使用頻度による磨耗、劣化と言うのもあるかもしれませんが、それなら、わざわざ収集家が劣化した肖像写真を収集するでしょうか? ドラクロワもドーミエも原版ネガがかなり損傷していることから、利用頻度による損傷は充分考えられますが、contretype negatif(作り直しネガ)されていません。果たして、当時、それほどこの「ミレーの肖像写真」が売れたのか疑問です。このカタログの説明の「手直し前に試しに現像された写真」とあるのが事実で、それにより原版ネガの状態が推測できるなら、ある意味で競売されたこの写真は貴重な資料なのかもしれませんが、専門家のご意見をお聞ききしたいところです。

古い写真競売カタログ


今回見つけた左目が覆われたミレーの写真の目

ナダール自身現像した写真の目

息子ポールによるガラスネガによる写真の目

初期のナダール現像写真のミレーの目
初期現像と思われるミレーの目


ミレーの左目拡大

競売カタログの写真解説から、ナダールが撮影したミレーの肖像写真ネガには問題がいろいろあったのではないかと想像されます。改めて、このホームページによってナダールのミレーの肖像写真の修整云々が取り上げられることを期待します。
 今回使用写真の著作権に関しては、すべて同じナダール撮影のミレー肖像写真で、同じ画像にいくつも著作権が発生するとすれば、今回のような比較検討には使用枚数の著作料が発生する事になり、しかもその目の部分だけの使用で、全体のイメージを使用していないと言うことと、使用料を払ってあるもの、所有権を持つもの、期限が切れているもの、著作権に関して明記されていないものなのでこのまま掲載します。しかし、問題があり、連絡いただければ、速やかに対処いたします。



● 次章、最後のまとめに「写真」の全景を掲載しました。

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著作権について 著作権に関しては充分配慮していますが、万が一著作権に抵触する場合、著作権者のご要望があれば即座に削除いたしますのでメールにてお知らせください。このサイトは、偶然見つけた写真に写っている人物を如何に査定したかを物語ったもので、どうしても画像による説明が必要になります。営利を目的に画像を使用しているわけではない点を著作権者様にご理解をいただき、掲載許可をいただけたら幸いです。また、読者の皆様におかれましては、著作権に充分のご配慮をいただき、商用利用等、不正な引用はご遠慮くださいますよう、よろしくお願いいたします。

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