写真:ミレーと6人の画家たち
ミレーを中心に、他に6人の現役及び初心の画家たちが写っている写真を物語る


9. 導き出された査定のまとめ



先ず、ミレー


=   




ミレーの自画像デッサン
反転画像
次に、ブーダン

=   





ブーダン肖像写真
プティ撮影
続いて、カルス

=   




カルス油彩自画像
次は、ウーヴリエ


=   





ウーヴリエ肖像写真
カルジャ撮影


若い世代(後の印象派の画家たち)に移り

先ず、ドガ


=   




ドガ油彩自画像

次に、モネ


=   





20歳のモネ肖像写真
カルジャ撮影

続いて、バジール


=   





若い時の肖像写真
カルジャ撮影



最後は旅籠屋シュバル・ブロンの夫婦






=   






旅籠屋の部屋に描かれていた夫婦の肖像


尚、カルスとドガの自画像を反転させなかったのは、後年の写真肖像との比較は査定過程で既にしたので充分と思ったのと、ほぼ同年齢の肖像画を選び、似た雰囲気を重視したからで、ミレーの場合、あまり結果が良いので特別に反転画像を採用しました。やはり、画は写真ではなく、特徴を的確に描き出すので、雰囲気の方を重視すべきと思います。後は、写真同士で、鼻の長さや顔の長さの比率、位置等の計量による比較で、科学的に同一人物かどうかを判定する事になるのではないでしょうか・・・・・?


この一連の比較を通して、今まで試みてきた「写真」の人物査定に同意していただけますか?それとも、別の人物と思われますか?










今まで「写真」全体の画像をお見せしませんでしたので、ここで改めて、全体像をお見せします。期待通りのものでしょうか? ほぼ原寸大です。


「写真」全体


改めて、左から、バジール、モネ、ドガ、ミレー、カルス、ウーヴリエ、ブーダン。そして、窓から顔をのぞかせているのは、旅籠屋シュバル・ブロンの主人夫婦と査定しました。年代は査定した人物の経歴の中で交差する時代を検討し、若者達がパリに出てきた頃、1863年、落選者展がサロン展と併行して開催された年と査定しました。ミレーはサロン展に「羊の群れを連れ帰る羊飼い」「羊毛をすく女」「鍬の男」の3点を出品し、ウーヴリエも現在ル・アーヴル美術館所蔵の「エディンブルグ風景」を出品しています。カルスはサロン展に落選し、落選者展に「木靴職人」(たぶん所在不明)を出品しています。ブーダンはサロン展に「オンフルールの港」(60フランで売られた後不明)が入選したが、カタログに記載されなかったとあり、確かにブーダンの名はありませんでした。モネ、バジールはまだサロン展に出品していません。(アカデミー・スイスで学んでいた、ピサロとセザンヌは落選者展に出品したと、文献にありましたが、ピサロは3点の出品が記載され、しかも住所は、ウーヴリエが1846年に登録した住所と同じでした。セザンヌの名は見付からず、ピサロはサロン展にも一点入選していました。)
 ドガに関しては、ドガの父親が妻の兄弟のアメリカ人ミッシェル・ムソンに1863年3月6日に出した手紙によると、「エドガーについて何を言ったらいいのだろうか、我々は画の展覧会が開かれるのを毎日心待ちにしている。私としては(展覧会に作品を)送るべきでも、その時期でもないと思うが」とあり、彼はサロン展に応募すべく制作していたようですが、落選したのか、落選者展にも出品していないので両方のカタログに記録がなく、ドガ自身も語らず、この年のサロン展にドガが応募したかどうかは不明です。しかし、ドガが1865年の初入選以前のこの年にサロン展に出品すべく努力していた事は、前記手紙に、弟ルネが「彼は熱狂的に仕事をし、画の事しか考えず、画を描いている限り、遊びに時間を割かない」と書き添えているのを読めば、明らかでしょう。真面目なドガは、落選したからといって直ぐには落選者展に持ち込む気が起きなかったのか、しかし、既にマネと出会っているドガが落選していたら、落選者展に出品したと思われますので、努力したけれど、応募締め切り日までに間に合わなかったので、残念ながら、マネのようには落選者展に出品することがなかったと考えたほうが自然に思えます。ドガを調べると、ドガの孤独で頑なな芸術家と言うイメージは晩年のもので、若い頃はアングルに会いに行ったり、ドラクロワの家の近くを徘徊し、すれ違ったことを日記に書いているのでわかりますが、好奇心旺盛で、フランス人とイタリア人の血(父親)にアメリカ人の血(母親)が混じり、国際的な商取引の決済をする銀行経営者の家庭に育った若者が、若い時は人見知りすることなく、誰とでも付き合えたであろうことは、想像に難くありません。(フランフ革命の時フランス政府発行の紙幣、アッシニア紙幣の偽造に絡み、イタリアへ逃亡、たぶんその資金を基に銀行を起こした)祖父と叔父、叔母の居るイタリア私費留学(1856〜59年)ではギュスターヴ・モローとかなり親しく付き合い、1859年とも61年とも、ルーブル美術館での模写でマネと親しくなりったことが文献上に見られますが、マネと同様、パリのブルジョワの子息でありながら、何処か精神的な貴族性を保ち、ルイ・ル・グラン(ドラクロワの出身校でもあり、現在、リセで最高に入るのが難しいとされる)学校で当時のパリの上流社会の子弟と同級になり、生涯にわたり交友を保ち、特別なスキャンダルを起こす事もなく、過去の巨匠に学び、素描を第一にするドガが、若い時とは言え、フォンテーヌブローの森につながるシャイイ平原まで足を伸ばし、小林秀雄氏が「戸外での制作などは、彼には思いもよらなかった」と「近代絵画」(新潮文庫)のドガの章に書いているのにもかかわらず、戸外で制作に励んでいるであろう、モネとバジールと共に「写真」に写っているとしたら、その意外性をどう解釈すべきか戸惑います。それを根拠に「写真」の人物がドガではないと言われては、元も子もありませんが、この「写真」に写っているのが唯一不可解なのがドガの存在です。しかし、ここは単純に、ミレーのパステル画に感動したドガがミレーに会ってみたくてシャイイ村行きの誘いに乗ったと考えて良いのではないでしょうか。なので、年少のモネとバジールと査定した彼らと比べると、ドガと査定した若者がミレーと査定した人物の隣で、かなり緊張した様子が窺がえるのではないでしょうか。いずれにしても、ドガがこの写真に写っていると査定してもよい理由は、若い時の「知的情熱の発露」、或いは、前記の様に、アングルやドラクロワに対するのと同様、若い時には誰にでも気軽に近づいて行った、ドガのミレーに会ってみたいという「旺盛な好奇心」と結論付けられると思います。
 サロン展出品のウーヴリエとブーダンの画の評判はわかりませんが、ミレーの「鍬の男」は批判にさらされ、バジールの母親の従姉妹の旦那、ルジョンヌ少佐はミレーを擁護するためペンネームで彼をたたえる詩を書いています。従って、ミレーを慰めるため、バジールの義理の伯父に当たるルジョンヌ少佐の家で催される土曜のサロンで知り合の面々(オペラや演劇好きなバジールの伯母が取り仕切るこのサロンにドガが出席していたであろうことは、彼の親友戯曲家アレヴィーと作曲家オッフェンバックがこのサロンの常連から推測)が、シャイイ村に行き慣れているモネとバジールを先導者として招待状を持ってミレーを訪ねたのがこの「写真」ではないかと物語を設定してみましたが、どんなものでしょう。
 この「写真」の査定を肯定して考察するとき、ドガに関しては既に述べましたが、改めて、カルスが第1回展から没前年の第4回展まで、印象派展に参加していたことの意義を踏まえると、カルスこそ、印象派の先達と言えるのではないかと、ピサロの言葉から、改めて思いました。
 もしかしたら、19世紀の美術史を研究している人には別の視点もあるかもしれませんが、何か新しい発見が、この「写真」を通してあるとしたら、バルビゾン村とパリのモンマルトルの麓が、想像以上に近しくつながっていたことでしょうか。そして、ボードレールと友達だった、バジールの義理の伯父に当たるルジョンヌ少佐の存在にも光が当たったらと思います。









1880年5月1日 Memy Girard 撮影のコロディオン湿板ガラスネガを入手したので掲載します。


コロディオン湿板ガラスネガ
黄みを帯びた灰白色の
コロディオン湿板写真ガラスネガ
後ろに暗色の布を置く
後ろに暗色の布を置いて
アンブロタイプ風画像にして見ました。
ラヴェル
ガラスネガの裏上の
ラヴェル


これはアンブロタイプの画像が反転していない証明資料になります。


その上、このガラスネガには修正の跡が見られます。

修正の跡

どのような方法を用いたのか、修正した後にニスを塗ったのか、反射させてみる表面には跡がありません。


多分セルロイドネガの初期のものと思われるものを入手しましたので掲載します。このフィルムも顔の部分が修整されています。

セルロイドネガセルロイドネガ

セルロイドネガ

この二つの資料により、肖像写真に於いては、顔の部分の修整は普通行われていたと考えてよいのではないでしょうか。従って、最初に提起した、ナダール撮影のミレーの肖像写真に関して当然手が加わっていた事が考えられます。修正に関して今まで問題にされなかった事のほうが不思議なくらいに思われます。




最後に、荒井宏子女史の國學院大學で行われた講演記録「記録資料を後世に残す―写真画像の保存―」に 『ゼラチン乾板ネガと湿板ネガをどのように区別すればよいかについては、湿板ネガはコロジオン膜で作られてあり、処理、乾燥後は表面にニスを塗ります。年月を経るとニスは飴色になります。湿板の時代は、自分でコロジオン乳剤を塗布しましたのでガラスの端に指で持った跡が残りますので、見分けられます。』(國學院大學学術フロンティア)とあり、

前掲載コロディオン湿板写真ガラスネガ下
前掲載コロディオン湿板写真ガラスネガの下
上掲載の写真右下端
「写真」の右下端

上に掲載の写真の右下に黒くなっている部分が、指で持った跡だとすると、コロディオン湿板写真による撮影であったと最終結論を出す事ができるかもしれません。しかし、荒井宏子女史の言葉を再読すると、ガラスネガを見ればわかると言う意味で、必ずしも、ポジ写真に指の跡が付いていると言う意味ではないようです。しかし、この「写真」の右下の濃い跡は、では何だと考えたらよいのでしょうか? 上に掲載の写真を参照すれば、やはり指の跡と判断して良いと思われます。従って、湿板コロディオンと考えるのが、現像テントの図版を見た後では一番可能性として高いと思われます。そして、写真家がコロディオン乳剤を塗布して、撮影準備を整えた後、事情がよく飲み込めていないまま、モネとバジールと査定される若者がせかされながらこの場に着き、のどの渇きを癒して落ち着くのを待てず、撮影が敢行されてしまったので、モネと査定される少年の顔がぶれてしまったのではないかとのありそうな状況の想像も可能ですが、事実はどうだったのでしょう? その他、この場の撮影が複数回されたかどうかですが、複数回されたと仮定すると、同様な写真が数葉存在したことになり、となると、今日まで埋もれたままである事は難しいと思われ、やはり、たまたま彼ら画家の集まりに居合わせた写真家が興味を持った結果撮影されたと思われ、事前に依頼されたものとは思われず、彼等のうちの誰かの手にこの写真が届いたかさえ疑問です。従って、残念ながら、この写真に関する彼等の記述、裏付けになる文献は存在しそうにないので、そんな形では確定される事はないであろうと、悲観的ですが、一部満足感を伴う結論といたします。







「事実は小説より奇なり」と言うので、もっと信じ難い事情の下にこの写真が、今日まで、日の目を見ることがなかったと因縁話にする事もできるかもしれませんが、残念ながら、能力もなく、また、個人の嗜好ですが、創作物語よりも、史実に基づいたドキュメンタリーが好きです。果たして、何処まで史実を掘り下げる事ができたか、一応、ここまでを公表することでまとまりを付けますが、これからも、あまり知られていない史実を掘り起こし、この査定を確証に近づける努力を続けるつもりです。


【追記】(2008/05/05)
資料でウーヴリエはルーアンで没したことになっているので、ルーアンに行って調べれば、何かが判明すると思いました。ウーヴリエは1873年からサロン展の出品をやめているので何かの事情で筆を折ったのか、事故か病気で描けなくなり、ルーアンに隠棲し、そこで亡くなったのではないかと想像し、ルーアン市の文書課の死亡登記簿に当たることにしましたが、文書課にウーヴリエに関する資料は何もありませんでした。係りの人の話では、ルーアン没とあるけれど、ルーアン周辺の村で亡くなったのではないかとのことで、そうすると、死亡届はその村で処理され、ルーアン市にまで回ってこないとのことです。ウーヴリエは現在はほとんど忘れられていますが、第二次世界大戦前まで、権威あるラルース世界百科事典に記載されていた画家なので、ルーアンに行けば何らかの手掛かりが得られると思っていましたが、空振りでした。美術館の研究員もヴァカンスで休暇中、ルーアン美術館に常設展示はされていないのは確認しましたが、所蔵作品の中にあるかどうか及び遺族による寄贈などの確認は出来ませんでした。その後、インターネットで検索してみましたが、唯一、文化省の美術サイト(ベース・ド・ジョコンダ)でウーヴリエの没したルーアンに?マークが付いているのを見つけました。それ以上の情報はなく、サイトに記載した人もルーアンの文書課に問い合わせたものの、没した場所は突き止められなかったものと思われます。Webサイトで、ウーヴリエの娘マリーが劇作家ユージェンヌ・スクリベの姪であるとの記載を見つけたので、ウーヴリエがスクリベの姉妹と結婚したのか、スクリベがウーヴリエの妹と結婚したと推測できます。マリーの息子はアールデコ様式の建築家になり、エッフェル(塔の設計者)の孫娘と結婚したとあり、ウーヴリエの血脈は絶えずに続いているようですが、娘が彼より早く亡くなったと、テラー財団の資料によるマダムの証言がありますが、それがマリーかどうかの確認はしていません。そして、マダムもウーヴリエの墓所がどこかは知りませんでした。しかし、マリーの息子、建築家アンドレ・グラネ(1881〜1978)の子孫を探し出せば曽祖父ウーヴリエの晩年の消息が判るかも知れません。又、ウーヴリエの検索で国立芸術史研究所(L'INHA)に自筆書類が保管され、ウーヴリエに関しては先買権と記載されているだけですが、カルスの自筆文献が230点あります。しかし、ミレーもブーダンもありません。確か、ルーブル美術館にブーダンの資料が相続者の弟によって寄贈されたとか、各画家の資料は、国立図書館、各美術館の図書部、古文書館、前出研究所などに分散して保管されているようです。研究者はその保管場所探しから始めなければならないのでしょう。そして、当然、著名な画家は研究者も多く、資料のほとんどは調べられていると思われます。となると、カルスかウーヴリエの資料のどこかに、この写真の撮影状況の記述のある可能性が残されていますが、果たして? 最後に、スペイン国境に近い町バニェレ・ド・ビゴレにあるサリー美術館(musee Salies : この美術館のことはまったく知りませんでしたが、第二帝政期のみ地元の代議士であったアチル・ジュビナルの発案で建てられた美術館のようで、マチルド皇女、ナポレオン三世、美術総監ニューウェルケルクとの公私共のつながりで得たコレクションを基にしているようで、印象派が生まれる土壌としての十九世紀半ばのフランス美術界の状況を研究するにはとても重要な美術館のようです。)でのサイトに重要なコレクションとしてサロン展では主流分野ではなかった風景画のバルビゾン派の大先生(グラン・メートル:ドービニー、ディアズ、デュプレなど)に準じる小先生(プティ・メートル)の中に、ウーヴリエの名が挙がっていることで、写真に写っている人物が、ウーヴリエである可能性の再確認ができたことを唯一の成果として、重い腰をやっと上げたのに、期待に反したルーアン出張調査の報告を終えます。ただ、「ボヴァリー夫人の恋人」のフローベール(近代小説の父)と「レディーメイド」のマルセル・デュシャン(近代美術の父)の墓参りができたのは個人的収穫でした。


この「写真」を引きずって10年以上の年月が流れました。その間、何度か発表を試みましたが、ほとんど相手にされず、美術館、図書館、大学教授、出版社、(図書館はフランス、出版社は日本だけ)フランス、日本、両方にこの「写真」の複製に説明をつけた資料を見せたり、書類としてまとめたものを送りましたが、一部(出版社より直ぐに不採用の返事が届いた)を除き、まったく返事がありません。最後に或る出版社の方より、インターネットで公表したらと勧められ、以前から考えていた事ですが、書き上げたのは600ページ以上であり、その上、かなりの量の画像が含まれるため、どのくらいの容量になるかわからず、とりあえず、ホームページ用に、新たにつくり上げました。そのお蔭で、当初、トレと査定した人物がホームページ制作過程で査定不充分である事が判明、10年来の間違いを訂正できました。ありがたいことです。間違いに気付いた時は途方にくれましたが、現在かなり自信を持って、この「写真」を査定できたと思っています。何時か、この「写真」のホームページ公開が専門家による検証を促し、この「写真」が公認され、日の目を見たら本懐を遂げたという事になり、10数年来の一人の妄想が、それなりに形になり、地味な調査がやっと評価される喜びに浸れるかもしれないと、淡い期待を抱いています。また、インターネットと言う新たな公表手段はまだわからない部分もありますが、比較的公平な公表手段になるのではないかと期待しています。最後まで読んでいただき有難うございました。できましたら、読後の感想をお寄せください。よろしくお願いいたします。

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