こうなると、前掲載、もう一人のひげを蓄えた人物(石原卯八氏と推定)と、前列右端に腰掛けている和服を着た女性(佐吉妹?)も当時の佐吉、浅子夫妻の周辺を当たれば判明すると思えます。それより、佐吉一行を迎えた、接待側が誰なのか? 1910年頃に、フランスで最先端技術を誇っていた機織工場を調べると見付かるかもしれません。そして、例の和服西洋女性の正体は? 次回に譲りましょう。
写真を見つけた当初(1990年代後半)、インターネットもそれほど発達してなく、パリに居ては資料の入手も難しく、たまに日本に行っても、図書館に豊田佐吉の資料があるでもなく、佐吉の肖像写真を入手後はほとんど何も進みませんでした。今回、思いついて、日本文化センターの図書館に行き、たまたま居た受付の名前も聞かなかった図書館員の方に豊田浅子の肖像写真を見つけていただき、帰宅後、インターネットで調べると、あろうことか、知多半島歴史研究のサイトから、2006年に出版された「豊田佐吉とトヨタ源流の男たち」と言う小栗照夫著ノンフィクションの紹介記事により、いろいろな写真が見付かり、あっという間に、この写真の人物が判明しました。(これらは「はんだ郷土史研究会」によるものであることが判明し、はんだ郷土史研究会よりの提供と言うことで、画像を使用させていただいています。)今後、招待側の工場主の調査をどう進めるか現在模索中です。
たまたまフランス人の知人が、背景になっているのがテキスティルの機械だと指摘したことをきっかけに、佐吉と思い込んだ結果、思わぬ物語が生まれましたが、果たして、豊田家は存続するので、迷惑だと、抗議が入るかもしれません。しかし、百年近い前に撮影された写真に関する考察です。事実でない事や、現在に不利益が生じる記述があるならば、受け入れ、訂正なり、消去しますが、知られていない新しい事実を掘り下げられたら、多少文化に貢献できるので、公表するつもりです。
話は変りますが、知人が何故、背景の機械をテキスティルの機械と直ぐに指摘できたかを考えた時、工業デザインに関する文献にこの工場の写真が掲載されていたのではないか? つまり、それほどこの工場が当時フランスを代表する最新の機械を導入した繊維産業における歴史的なモデル工場だったのではないか?などと妄想を膨らませています。そうならば、この工場主の特定は容易でしょう。ただ、指摘してくれた知人は今何処にいるのか?音信不通です。従って、この機械が間違いなくテキスティルの機械かどうかの確認も出来ません。でも、信じた結果、この写真を物語ることが出来たのだから、彼には感謝します。
とは言うものの、事実を知りたく、現在、豊田佐吉のヨーロッパ視察旅行について、随行員や訪問先などを豊田佐吉記念館に問い合わせています。ほぼ百年前のことですし、二度の世界大戦を挟んでいるので、資料がどれだけ残されているか、明確な回答が得られるか? 手紙を書いた時は西川氏を見つけてなく、佐吉一行であると確信する以前なので、この写真が視察旅行であるとはっきりとは書きませんでしたが、今は、西川秋次氏の出現で視察旅行であることが決定付けられたと思うので、佐吉記念館から回答があることを期待します。しかし、西川秋次氏はアメリカ視察旅行に同行しそのままアメリカに留まったとあり、欧州視察後アメリカ視察になったのか、この工場がイギリスなのかアメリカなのか、はたまたフランスなのか? 豊田佐吉記念館から回答があれば、解決する問題ですが、ヨーロッパを中心にした世界地図を眺めていて気付きましたが、シベリア鉄道(1904年全線開通)を使って、ヨーロッパに入り、船でアメリカに渡り、アメリカ大陸横断鉄道(1869年に横断鉄道開通)を利用し、太平洋側まで行き(1909年シカゴからのミルウォーキーロードがシアトルまでつながったとあり、そこから横浜へと、勝手な想像)、船で日本に戻るコースが考えられます。しかし、西川秋次氏の回顧談で、アメリカにわたる船の中でとあり、船で太平洋を横断したようですが、これが大西洋であっても良い訳で、文献に因れば、「佐吉の1910年の海外渡航の全てにわたって三井物産が援助した」とありました。三井物産の古い資料が中野の「三井文庫」に保管されていると言う事なので、佐吉の欧米視察旅行に関しては、そっちの方に資料が残っているかもしれません。記念館からの回答を待つ間にも、いろいろ想像します。ヨーロッパ留学などでは船でマルセイユに着いたとありますが、一ヶ月以上の長旅で、結局船賃が安いので選んでいるように思います。三井物産の援助で、別に旅費のことを心配する必要がないとすれば、飛行機が登場するまでは、日本とヨーロッパを結ぶ最速の交通路であったシベリア鉄道を利用した公算が高いのではないでしょうか。そして、家族親類縁者を引き連れた、欧米視察旅行の名を借りた、趣味と実益(この実益の中に、世界情勢視察の特務が加わっていたら、別の物語も生まれます)を兼ねた世界一周旅行だったのではないでしょうか? この写真が、佐吉一行だと証明(記念館からの回答を待たず西川秋次氏の出現で証明)され、詳細が解明できると、いろいろ面白い事実が浮かび上がる可能性があると思われます。そして、三井物産が絡んでいるなら(特務上の必要からも)、海外にいる写真家を佐吉一行に紹介したことも充分考えられ、シベリア鉄道経由ならドイツに寄り、有賀乕五郎(彼は帰国前にドイツ当局にスパイ容疑で逮捕されています)を写真家として雇った可能性も増します。当然、フランスに立ち寄ってから、イギリスに渡り、その後でアメリカへ渡った道筋が考えられます。益々、記念館からの回答が待たれます。この記念撮影がフランスであれば、前記のような事情も考えられ、繊維産業の盛んな地区も限られ、訪問先が判明すれば、意外と簡単に接待者が判明するかも知れません。それより、和服西洋女性のことが気になり始めました。彼女をこの写真と関連付けたのは最近の事で、本格的に検討してはいません。旧帝国ホテル竣工の1922年から第二次世界大戦勃発の1939年の間に日本に滞在していたと思われる女性。期間はもっと狭められると思いますが、外交官夫人としてか?商社駐在員夫人として東京に滞在したのか?豊田家が何らかの理由で個人的に招待したとはあまり考えられませんが、まったく有り得ない話でもないかも知れません。当時の日本での外国人女性を調べるのにどんな方法があるのだろう。新聞記事になっているなんてことはあまり考えられないし。佐吉一行に関しては、記念館の回答を待つより、三井文庫での調査で何かが判るかもしれません。或いは、当時のフランスの新聞、地方紙などに佐吉一行のことが記事になっていないだろうか? いずれにしても今後の調査は容易ではないでしょう。
2008年7月に豊田佐吉記念館の神先氏より回答を頂きました。要点のみを記します。
○ 1910年10月8日に英国に向かう。英国で一ヶ月ほどマンチェスター近郊を視察。
○ 英国に渡る以前は米国で各地を視察。米国で特許の出願を決める。後に申請し取得する。
○ 英国の後、フランス、ベルギー、オランダ、ドイツ、ロシアを訪問。モスクワからシベリア鉄道で中国を経由して1911年1月1日に帰国。
○ 同行者は 日本からの出発時、及び米国滞在中は西川秋次氏が同行し、西川氏はそのまま米国で研修をする。ニューヨークから英国へは石原卯八氏が同行。この二人以外の同行者なし。
○ フランスでは織物の中心地リヨンを訪問。
○ 佐吉に二人の弟以外に妹が一人いて地元に嫁いだ。
以上が神先氏の手紙で知り得た情報です。これ以外に浅子夫人が制作した「佐吉翁胸像」についても訊ねましたので、佐吉の肖像のみ大小数点制作したことも判りました。日本女性肖像大事典に大正期の彫刻家と解説されていたので、どんな彫刻を残したのか気になったので訊ねました。
ということで、豊田佐吉記念館からの回答に因れば、一緒に写っている同行者と思われる人たちにより、この記念写真は欧米視察旅行での撮影ではないことになります。
百歩譲って、一族郎党を同行したとして、西川秋次氏が写っていることにより、ヨーロッパではなく、アメリカでの撮影となります。
二百歩譲って、西川氏もヨーロッパに同行し、途中で別れて、ロンドンよりニューヨークへ向かい米国の研修に就いたと言う推測は可能なのではないかと思いますが、石原卯八氏の肖像写真が入手できないので、今一人のひげを蓄えた人物が石原卯八氏と断定できないことが残念です。
従って、「佐吉の妹が九代目石川藤八と結婚したのかどうか」を年末11月15日に佐吉記念館に問い合わせました。当然このドキュメントのコピーを送ったので、同伴者の件も、再調査をお願いしたことになると思いますが、まだ回答はありません。最初の回答も2ヵ月後くらいでしたので、そのくらいは調査にかかるかもしれません。石原卯八氏の肖像写真も入手してもらえれば確証にまた一歩近づけると思いますが、そうなるとこちら側の調査責任も大きくなります。
肖像写真がインターネット上で見付からないかと思い、「石原卯八」で検索した所、「小説の中の弁理士と特許(2)」桑原英明・中島正次著に:
「豊田佐吉は、明治43 年に特許弁理士−石原卯八を伴い、シアトル、シカゴ、ニューヨーク、イギリス、フランス、ベルギー、オランダ、ドイツ、ロシアと8 ヵ月かけて回り、ウラジオストックから下関へ帰り、その間に米国特許を取得する機会を作っている。」 とありました。
これは、前記、豊田記念館からの回答を補っています。8ヶ月かけたと言う事は、1月1日の帰国から10月8日英国へ向けて出立を逆算して、米国にほぼ5ヶ月(船旅の日数を引くともっと短くなる)滞在したということになります。ただ、「石原卯八」検索で、シベリア鉄道でウラジオストックに着き、其処から下関に帰国したとの記載になっていますが、記念館回答の中国を経由して帰国の記載もあり、インターネットで当時の交通機関を調べると、「1905年までに中国領満州のハルピンを経由してモスクワとウラジオストックを繋ぐシベリア鉄道(一部東清鉄道)が建設された」とあり、ウラジオストックからハルピン経由釜山、下関というのが丁寧な記述でしょう。いずれにしろ、自分の足で調べた結果ではないので、なんとも言えませんが、それを言えば、
友人、弟妹、妻子を伴った旅行ではなく、米国、欧州と各一人の同行者のみの簡素な視察旅行と取れるような満州事変以降に出版された豊田佐吉傳の記述をどう読むのか、つまり、書かれていないから単純に同伴者は通訳を兼任した一人だけだったと読むのか、企業家としても成功した世界的発明家、豊田佐吉の伝記に一族郎党を引き連れての物見遊山的な旅行はふさわしくないので、西川、石原両氏が同行したにもかかわらず、二人を米国と欧州に分けたのかもしれません。前記、ウラジオストックから下関に帰国したという記述と同様に、記述の簡素化で、他の同伴者の事を書かないからといって、偽りの記述をしているわけではないと言う理論も成り立つわけですから。関東大震災後に太平洋戦争を経て、多くの資料が失われ、日本に残った資料での確認は難しいかもしれませんが、いずれにしろ、豊田佐吉一行ではないかと思われる写真が出現した以上はっきりする必要があるように思います。
前記二つの資料から、先ずシアトルに渡り、米国に5ヶ月(航海日数を引くと4ヶ月くらいか)滞在し、ニューヨークからロンドン、欧州に渡ったのはほぼ間違いがないと思われます。滞在した米国での写真は1枚もないのでしょうか。米国は特許法が厳しく、写真を取れなかったのか、写真家を伴ってなかったのか。写真家を伴わなくとも、町に観光の記念撮影をしてくれる写真家はいたと思われますが、そんな写真は残さなかったのでしょうか? 米国にも家族弟妹らを連れて行っていたら、彼等が観光地で、ポラロイドの前身フェロタイプの写真撮影でもしていて、それが残されている可能性がありますが、それらがないとすれば、永い船旅は敬遠され、米国には両氏以外は誰も同伴しなかったのかもしれません。或いは、前述したように、有賀乕五郎の写真は関東大震災と東京空襲でほとんど残っていないと同様に、佐吉の欧米視察旅行の資料は戦争ですべて失われてしまい、口伝もなく、豊田佐吉傳に記述されていることが唯一残された欧米視察旅行の文献ということなのでしょうか。
それならそれで、記述が簡素化されていると考えると、一つには全旅程を、この写真に写っている全員で廻ったが、傳記には二人の名前が、米国と欧州に分けて記載されただけだったとの解釈。今一つは、先ず米国へは西川氏が一人で随行(「小説の中・・・」によれば、石原氏も同伴、しかし)、国際特許取得の可能性が判明した段階で弁理士の石原氏に日本から申請資料を持って欧州に来るよう頼み、同時に他の一行の欧州同行を依頼します。従って、シベリア鉄道で、石原氏は欧州へ、家族、弟妹、義弟に随行し、フランスあたりで佐吉たちと落ち合ったというのはどうでしょう。その後に西川氏は研修と石原氏より受取った資料を基に特許申請の下準備をしに米国へ、石原氏はそのまま家族ともども佐吉に随行し、ベルギー以降の国々を視察、モスクワからシベリア鉄道で帰国。このことで、欧州は石原氏だけが随行と記述されてしまうことになった。その後で石原氏は弁理士として特許申請に再渡米したというのはどうでしょうか。今のところ米国での家族同伴の写真はなく、同伴してないと考え、且つ西川氏はそのまま米国に残ったという記述は、単に日本に帰国しなかったから米国にそのまま残り研修を続けたと言う記述になったとすれば、このフランスでの写真に両氏(石原氏については推定)が写っているのはこんなシナリオで説明できるのではないでしょうか。
日本の文献資料での調査が難しければ、ここに写っている欧米人の家族をなんとか探し出し、この記念撮影がいつで、何のためだったのか、明確に出来る可能性が残されていると思いますが、それも簡単ではないでしょうが、豊田佐吉を見つけたように、気長に探すつもりです。
追記 : 2009年2月12日付けの豊田佐吉記念館保存会の吉岡茂之氏よりの御返事に、3枚のコピーが添えられていました。下関に帰国当時の佐吉肖像写真(この記念撮影の佐吉と思われる人物と同様な口ひげを生やした、査定の資料として重要な写真)と既に比較に使用した写真より鮮明な浅子夫人の肖像写真。それに、これも既に比較に使用した若い西川氏の肖像写真でした。そして、「同一人物とは言い難い」と結論付けておられました。加えて「関係者の方々にも確認を取りましたが、皆さん各々同一人物とは思われないという意見でした。」と言う事で、記念館保存会はこの記念撮影に写っている人物達は豊田佐吉とは関係がないと結論付けたようです。再度ここで比較してみます。尚、佐吉と浅子の肖像は田中忠治氏発行の「豊田佐吉傳」より、西川秋次の肖像は西川田津夫人発行の「西川秋次の思い出」よりコピーしたものとのことです。
(写真による検証、再開します。)