― テキスティルの機械の前の記念撮影をした人たちを追究すると ―





まづ、写真の入手過程から


 たまたま、パリの蚤の市で台紙に日本の写真館の名が付いている写真があるのに目が留まり、日本で写されたと思われるものと日本人が写っている写真を買いました。その中の一点が、偶然に眼にした、彫刻家カミーユ・クローデル作の弟ポールの胸像写真の顔に似ているので調べ、ポール・クローデルが駐日大使として日本に赴任している任期中に、東京の芝、新シ橋(あたらしばし)角の丸木利陽(としひろ、1854〜1923)写真館で写したものではないかと査定しました。ポール・クローデルが駐日大使として赴任したのが、1921年から1927年まで、丸木利陽は1923年に没しているので、1921〜2年頃の撮影と推定出来るこの写真がポール・クローデルであるならば、かなり貴重なものでしょう。別の写真館の名の付いた写真は裏に二見朝隈、東京銀座二丁目十番地というシールが張ってあり、調べると、二見朝隈(あさま、1852〜1908)は北庭筑波の弟子とあり、日本の黎明期の写真家の一人です。それは、鼻めがねをかけ、ひげを生やした壮年の欧米男性とその奥さんと見られる、和服を着て和傘をさした欧米女性が写っている二点で、アルファベット表記にTOKIOとあり、東京の古い表記で、写真の劣化状態、二見の没年から、ポール・クローデルの肖像写真よりかなり古いものであることが判り、当初、風刺漫画家ビゴーではないかと思いましたが、肖像写真が見付かり彼ではなく、今の処、誰だか見当も付きません。もう一点は、和服を着た西洋女性が旧帝国ホテル正面入り口に置かれた大谷石のオブジェを背景にして撮影したもので、それは有賀乕五郎(とらごろう)写真館のものです。これはきちんとプレゼント用に装丁されています。表紙にPHOTO KUNST-ATELIER TG ARIGA.TOKYO.とドイツ語で書かれ、調べると、彼はドイツに留学しているので、これは当時のドイツでの写真装丁を踏襲したものなのか、今日でも結婚式やお見合い写真に見られるのと同じ装丁です。有賀乕五郎は1890〜1993年まで生き、写真館は現在も銀座に存続しています。旧帝国ホテルは1922年に竣工しているので、それ以降、数年を経てからの撮影でしょう。それ以外何の手懸りも見出せません。この写真館の名のある四点の写真の人物の共通点は欧米人であることと東京に滞在していたと言うことだけで、撮影年代もまちまちで、今のところ、何の関連性も見出せません。今回取り上げる、何の表記もない五点目の写真について言えば、和服姿の女性が写っているので、処分されずに残り、それを見た骨董商が、売れると思って仕入れたのが、先客の興味を惹かず、売れ残って前記四点と一緒にあっただけなのかもしれません。それでは先ず、丸木利陽の写真とカミーユ・クローデルの彫刻写真を下に掲載します。

丸木利陽写真館
右下に丸木利陽の刻印

右の部分拡大
ポールなら53,4歳
カミーユ・クローデル作
カミーユ・クローデル作
ポール・クローデル37歳






今回追究する写真に関して

 前記の写真と共にあったということは、今ここで追及しようとする写真も、日本から何らかの形でパリにもたらされ、持ち主が亡くなり、遺品が処分され、年を経て、蚤の市に出たのかも知れません。五点の写真以外にはどんな写真があったのか記憶が定かではありませんが、雑多に古い写真が重なっていたように思います。その中から、日本に関係があると思われる写真だけ選んだわけで、店頭にあった写真がすべて日本から持ち込まれたものだったと言う印象はありません。ただ、この五点の写真が同じ人の所有であった可能性も充分考えられます。しかし、今回採り上げる、多数の人物の写る記念写真は、台紙も厚紙程度のもので、印画紙の種類も違い、写真サイズも違い、写真館の刻印もシールもなく、額装されていたのか?そうでなければどんな装丁がされていたのか?台紙に何か貼られた痕もなく、単に封筒にでも入れられていたのか?保護用の薄紙も付いていた気配がありません。その上、写真の台紙への張り方や、糊の付け方の粗雑さも目立ち、手先の器用な日本人によって台紙に貼られたものかどうかの判定もできず、手掛かりになるものを見付けられず、他の未判明の写真と共にそのままになっていました。しかし、ある時、知人のフランス人に、「こんな写真を見つけたのだが」と見せると、すぐに彼は、「この後ろの機械はテキスティルの機械だ」と指摘しました。彼は工業デザインを勉強していたのでわかるのだとのこと。それ以外のことは彼にもわかりませんでしたが、それ以来、もしかしたら、豊田佐吉に関係があるのではないかと思い始めました。昔々のその昔、トヨタ自動車がこれほど世界的になっていない時代、テレビがそれ程普及してない時代に、確かNHKで世界的発明家豊田佐吉の物語があり、それがいたく印象に残って、織機と聞いた時に彼の名が直ぐ浮かび、それ以後、機会あるごとに豊田佐吉の肖像写真を探しましたが中々見つからず、やっと見つけた時には自分の勘のよさに驚きました。下に写真を掲載します。


◎ これが今回追究する「テキスティルの機械の前の記念撮影」です。



 縦21センチ、横27センチで縁なしに切られ、2ミリ大きい洋紙に上だけ糊付けされ、それが内側6ミリに押線枠のある30×36の台紙にこれも上だけ糊付けされています。これは有賀乕五郎の写真装丁と同じですが、台紙に貼られただけのむき出しです。

◎ これが最初に見つけた佐吉53歳の写真です。

佐吉53歳
豊田佐吉、53歳

◎ 最初に見つけた写真と記念撮影のなかの一人物の拡大写真とその後見つけた瑞宝章を授与された佐吉60歳の時の写真を比べて検討。

写真の人物
佐吉か?佐吉なら欧米視察の時、43歳
佐吉瑞宝章受勲
瑞宝章を受けた佐吉、60歳

 左下の肖像は記念撮影のなかの一人物を拡大したものですが、上と右下は公表された豊田佐吉の肖像写真で、きちんとあごを引いて写っています。最初に見つけた写真と左下の拡大写真のワイシャツの襟とネクタイの締め方が同じであることが確認できるでしょう。左下の拡大写真は口ひげを生やして微笑んでいるように見えます。豊田佐吉の年賦を調べると、1910年に欧米の視察旅行をしています。その時とすれば、日本人は欧米人と比べると童顔で、若く見られないための方便にひげを生やしたのではないかと考えると、ちょうど符合するのではないでしょうか。この三点の肖像写真に共通するのは、眉毛、垂れ目、獅子鼻で、当然、顔の輪郭も耳も似ています。特に瑞宝章をつけた佐吉の左右の眉毛と拡大写真の人物の左右の眉毛が良く似ています。以上から、拡大した左下の人物が佐吉である可能性はかなり高いと思われますが、いかがでしょう。

◎ 佐吉とすれば、記念写真の真ん中にいる和服の女性は佐吉の後妻、浅子ということになります。

 浅子の経歴を調べると、将に糟糠の妻と呼ぶにふさわしい姿が浮かび上がってきます。
 佐吉の生家の近くの農家の長女で、二十歳で佐吉の後妻として小さい機織所を切り盛りし、佐吉の発明を献身的に支え、佐吉の自動織機が成功した後は、かみさんから奥様に、佐吉が世界的に成功した後はそれにふさわしい夫人になったということです。ではその浅子と思われる女性の拡大写真と(パリ日本文化センターの図書館の受付にいた人のおかげで)日本女性肖像大事典で見つけた豊田浅子の肖像写真を並べて検討しましょう。

写真の人物
後妻・浅子か?
後年の浅子
豊田浅子の肖像写真
 どうですか?着物の襟の抜き方がそっくりです。パッチリした眼の特徴が似ています。顎から眉にかけて同じサイズにした顔を定規を当てて比べると、眉、眼、鼻、口の間隔がまったく同じで、顔の輪郭も同じ様に見えます。ただ、額と髪型が違っていますが、若い時の髪の量と額の禿げ上がりを年齢の差とすれば、問題はなく、かなり似ていると判断して良いと思われます。

○ 新たに浅子夫人の肖像写真がインターネットで入手できたので、年代別に、再度検討。

若い浅子
1902年頃か?
写真の人物
1910年?
後年の浅子
晩年か?
 いかがでしょうか?  若い頃の肖像はかなり細面に写っていて、中央の女性と直ぐには似ているとは思えません。若い頃の肖像写真と後年の肖像写真を比べて、直ぐに同一人物と思えるでしょうか。何度も繰り返し眺めていると、なんとなく三点とも似ていると思えてきますが、若い頃の肖像写真は顔を少し横に向けているし、この頃は機織所の切り盛りで忙しく、太る暇なく、ふくよかさに欠けていたのではないでしょうか。しかし、多少気に掛かります。髪形はまったく同じではありませんが、同じまとめ方をしているように思います。子育てと、佐吉の事業の手伝いに奔走していた若い頃の肖像と比べて、中央の女性は、事業もそれなりに軌道に乗り、女性としても自信を持ちつつある(経歴より推察)時期の欧米視察旅行での記念撮影で真正面を向いている肖像である事を考慮すれば、まったく別人であるとの結論は出ない位には似ていると言えるのではないでしょうか。浅子は明治十年(1877年)に生まれ、昭和十一年(1936年)に亡くなっています。享年59歳です。

 この方法が正しいかどうか判りませんが、眉から顎までの長さを同じにして、両眼を一直線にして、眉、眼、鼻の下、口、顎の間隔をしらべた結果を下に掲載します。
間隔比較間隔比較
 繰り返し、見直していますが、若い時の肖像写真が出てきて、中央の女性を間違いなく浅子であるとするのは問題に思えてきました。愛子の結婚後の肖像写真で細面に写っているものを観ているので、浅子の顔の造形が基本的に細いとすると、眼がパッチリした、多少顎の出て見える中央の女性が浅子であるとすることは無理になります。眉毛や眼、鼻や口の間隔が同じなのは何処まで根拠になるか? それだけでは、見た目の違いに対して、今一つ説得にかけるのは否めません。ただ髪の形が影響して、細面に見えないのかもしれません。この女性が真正面を向いていることは充分に考慮して比較しなければなりませんし、年齢による変化も考慮すべきでしょう。従って、後年の肖像と顔の輪郭が似ていることは救いになります。繰り返し眺めていると、後年の肖像写真だけなら、問題なく、浅子であると言える気がするのですが?

○ 1906年3月と撮影年月の判る浅子の肖像写真が見つかったので再々度検討。娘愛子18歳頃追加。

浅子
1906年3月
写真の人物
1910年?
愛子
愛子18歳?
 益々深みにはまってゆく気がします。新たに見つけた写真の眼の大きさはこの写真の女性と同じようです。髪型も近い気がしますが、全体的な顔の輪郭に違いを感じます。昔は良く見合い写真などには修正を加え、見栄えを良くし、それが写真家の腕の良し悪しとされましたが、一人で写っているこの写真に修正が加えられていないでしょうか? 似てるような、違うような、決定打にはなりませんでした。今回見つかった写真と後年の肖像には近似を感じます。ただ、眺めていると、姉妹ぐらいには間違いなく似ている気がします。でもそんな事は何の意味もないことでしょう。結婚当時の愛子の写真が見付かったので追加します。これを観ると、眼が良く似ているので、真ん中の女性と親子であるとしても不思議は感じません。ただし、左の写真とは、細面な感じが似ていて、その部分で親子である事を彷彿させます。真ん中の女性は、少し横に顔が拡がっている気がしてしょうがありません。

 最近、坂本竜馬の妻、お龍の晩年の唯一残されていた写真から、若い時のお龍ではないかと言われていた肖像写真が、警察庁の科学警察研究所の鑑定で「別人であることを、本質的に示す根拠はない」との結論で、可能性か高い(ほぼ断定されたとの見解)とされましたが、その鑑定表現を借りると、別人であることを、本質的に示すかもしれないのは、わずか、細面に見えない部分ですが、お龍の60歳と30歳の写真も顔の幅に、見た目ですが、違いを感じます。参考のため下にお龍の写真を掲載します。

お龍30歳
お龍30歳頃
お龍60歳
お龍60歳

◎ この写真の女性の左のこめかみが髪に隠れているために頬骨が出て見え、細面に見えないせいでしょうか? 修正を試み、それを前出肖像写真と比較。ついでに、新たに見つけた愛子18歳頃の横顔も追加。

写真の人物
33歳、無修正
浅子29歳
29歳
修正写真
左こめかみ部分の髪修正
後年の浅子
後年
愛子横顔
愛子横顔

 こめかみの髪を消しただけで、面長になり、頬骨は気にならなくなりました。顎に関しては、後年の肖像輪郭から、同形と確認でき、とすれば、若い時の写真が二点とも真正面を向いていないので、輪郭が多少違って見えると判断し、細面云々の問題が無くなれば、何とか、この写真の女性を、豊田浅子と認めることができるでしょうか? 明瞭ではないとは言え、後年の写真との類似が顕著であるし、愛子の眼も含め、眼が良く似ているので「別人であることを、本質的に示す根拠はない」と結論付けましょうか。


◎ ここで、後列の若い女性に焦点を当てて、彼らの子供について調べてみます。

 佐吉の息子・喜一郎(母、先妻・たみ)左と娘・愛子(母、後妻・浅子)右 と 写真後列の若い女性の顔の拡大写真を掲載します。愛子が結婚した頃の写真も再度掲載します。

喜一郎と愛子
喜一郎と愛子
写真の人物
愛子か?
愛子
1915年頃の愛子

 佐吉の欧米視察時1910年に愛子は13歳くらい、現在の中学一年生、を1899年生まれなので11歳と訂正、それくらいの感じでしょうか? 愛子が結婚した頃のこの横顔に面影が似て見えますが、どうでしょう?

この時、喜一郎は16歳で、随行者中に該当する人物は見当たりません。しかし、

 豊田家のことを調べ、いろいろな写真の中に24歳と47歳社長就任時の喜一郎を見つけ、佐吉と思われる人物の後ろに立つ人物と見比べると、血族関係を感じます。年齢から考察すると、佐吉の弟平吉(現最高顧問豊田英二氏の父)ではないかと思われますが、いかがなものでしょうか? 真ん中が平吉と思われる人物です。

喜一郎24歳
喜一郎24歳
写真の人物
平吉か?
喜一郎社長
喜一郎社長就任47歳






途中ですが、「テキスティルの機械の前の記念撮影」についての勝手な想像をまとめて記載。

 もし、この写真が1910年の欧米視察の佐吉一行だとすると、第一次世界大戦前の日本が国際的な地位を確立しつつある時期、日本の将来の経済を背負う意気込みがあったのでしょうか?それにしては親族を引き連れての旅行のようで、物見遊山の趣も仄見え、受け入れ側も家族同伴で、商取引が成立した後の記念撮影には見えません。よく観ると、全員が正装しているようで、工場内である為か、佐吉と相手の家族はコートを着たままです。このあと直ぐに歓迎会が行われるためなのでしょうか? 他に何か特別な理由があったのか? 工場主と見られる接待側の主人が、どうしてか横を向いて、心配げに佐吉を見ているので、本来の記念撮影としては失敗作の写真に思えます。記念撮影専門の写真家なら、当然取り直され、きちんとした写真が提供されるはずでしょう。そうでなければ、撮影代は支払われず、二度と声は掛からないことになります。とすると、接待側の主人と思える人物の横を向いた顔がぶれていないのは、彼が故意にそうしたのかも知れないと言う憶測が生まれます。そして、撮影者はシャッターを押した時、彼が横を向いて写ってしまった事が判ったはずなので、当然取り直しを提案したでしょう。テキスティルの機械群を背景に入れた記念撮影がどんな意図で企画されたのか、急に、記念撮影をしますということになったわけではないはずですから、いろいろな思惑も絡む可能性が想像されます。この写真を良く眺めると、並んだ人たちの正面真ん中にカメラが置かれていず、右斜め上から日本人夫妻を中心に写されているように見えます。それは背景に機械群全体が入る構図にした為でしょう。工場主自慢の機械を背景に記念撮影をすることで遠路はるばる訪ねてきた極東の同業者を歓迎する意図でなされたことなのでしょうか? そうだとすれば尚更、撮り直されて、このポジ写真は現像されなかったはずです。記念撮影としか思えない状況で、正面を向いていない人物の存在が何かを物語り、現像されて残されたこの写真はかなり奇妙な存在に思えてきます。となると、佐吉に依頼を受けた写真家の存在を考えたくなります。或いは、視察旅行の佐吉一行が写真家を引き連れていたと考えると、佐吉側の意向で写真家が働くことになり、どんな話でそうなったのか、佐吉と一緒に寒い外から戻った主人一行が外套も脱がず撮影現場に着かされ、何でこうなったかわけの判らない主人がムッとして横を向いている意味が判る気がします。フッと、当時のヨーロッパに日本人の写真家がいたのだろうかと思ったとき、有賀乕五郎がドイツに留学したことが頭に浮かびました。早速、インターネットで調べると、彼は1908年にベルリンに渡り、第1次世界大戦勃発で帰国したとあり、1914年までヨーロッパに滞在していたことが判りました。時期的に彼が佐吉の欧州視察旅行に頼まれて、写真家として同行した可能性がまったくないとは言えません。前記旧帝国ホテルの和服西洋女性の有賀乕五郎写真館装丁写真と一緒にあったことは、それを暗示させます。そして、この写真ネガは日本に持ち帰られ、日本でポジ写真に焼かれた可能性が生まれます。有賀乕五郎の写真は関東大震災と東京空襲でほとんど残っていないと言う事で、確認は難しい話ですが、とすると何故それがパリで見つかるのか? フランス女性が和服姿を有賀乕五郎に撮影依頼をした時、フランスで昔こんな写真も撮りましたと失敗談と共にこの写真を見せられ、珍しさから譲り受け、帰国時に自分の写真と共に持ち帰ったとするなら、商売のための装丁ではないので、表紙も薄紙も付かず、粗雑に糊が写真についていても不思議はないと思えます。そして多分この失敗写真は佐吉側には渡されずに、たまたまフランス人の顧客だった彼女に懇願され渡されたと言う物語はどうでしょうか。と言うより、ここに写っているフランス人が彼女の親族だとしたら、当然、有賀は彼女にこの写真を進呈した事でしょう。有賀乕五郎撮影の和服西洋女性がそのことを知っていて、東京に来たときに、有賀を指名して、撮影を依頼したとしたら。それより、この写真の所持者が元もと彼女だとしたら、この女性の祖父母と母親がこの写真に写っていると言うことになります。そんな事ってあるのでしょうか? 調べてみる価値はありそうです。早速、有賀撮影の女性の顔の部分だけ切り出して、写真の工場主側の家族の写真と並べてみました。

父
工場主
和服女性
和服西洋女性
母
工場主夫人
姉
上の娘
和服女性
和服西洋女性
妹
下の娘

瓢箪から駒とはこの事でしょうか? 並べてみた結果、工場主夫妻と和服西洋女性、下の娘と和服西洋女性に似た雰囲気が感じられます。但し、そう思ってみるからかもしれません。この下の娘とこの和服西洋女性がかなり似ている気がしますが、彼女がこの和服西洋女性と同一人物だとすると、この「テキスティルの機械の前の記念撮影」の撮影時期が旧帝国ホテル竣工数年後ということになり、十数年以上時代が進み、佐吉は53歳以上になり、残されている53歳の佐吉の肖像写真の頭髪状況からこの写真の人物が佐吉である可能性が消え、視察旅行の話もなくなります。従って、和服西洋女性をこの娘達の子供、工場主の孫とすれば、年代的に問題がなく、その孫が帝国ホテルに泊まったとなると、豊田家とこの家族との交遊関係が続いていたのかもしれません。思わぬ結果に戸惑いを覚えます。しかし、なんとなくそんな気がすると言う感じで、今のところ実証できるものはなにもありません。正にそう思ってみるとそう見えるという話で、みんな似て見えてきてしまいす。佐吉一行に話を戻します。



 佐吉が欧米視察旅行から帰国した後の1911年に豊田自動織布工場が設立されています。

  途中になったので、改めて、前記佐吉の弟平吉と思われる人物と平吉の長男、英二氏を比べます。
写真の人物
平吉か?
英二氏
平吉の長男、英二氏
英二氏
画像が小さいので
差し替えました。

 以前入手した写真では親子関係を彷彿させる感じはありませんでしたが、今回の写真は顔の傾きも同じで、充分、親子である感じがします。年齢的にか英二氏が少し下膨れになって、貫禄充分な感じです。以前も今回も、下唇の部分が似ています。

◎ 新たに、平吉、佐助の肖像写真を入手したので、比較を試みます。
平吉
平吉
写真の人物
どちらに似ているでしょう?
佐助
佐助

 おでこの部分を除いて、下あごと唇、鼻、耳の形から判断すれば、やはり、平吉と思われます。これで四人目の人物が査定できたことになり、益々、佐吉一行である可能性が濃くなってきました。

○ ここで、平吉、長男・英二氏、及び、英二氏三男・周平氏、平吉と思われる人物を並べて見ます。

平吉
平吉
英二氏
長男・英二氏
周平氏
英二氏三男・周平氏
写真の人物
隔世遺伝?
 まったく、100%手前味噌ですが、周平氏と写真の平吉と思われる人物に雰囲気の類似を見てしまいますが、如何なものでしょう。

○ ここで入手した佐吉、長男喜一郎、その長男章一郎氏(佐吉の孫)、その長男章男氏(佐吉のひ孫)、そして、写真の人物を並べて見ます。

佐吉
佐吉翁
喜一郎
長男・喜一郎
章一郎氏
孫・章一郎氏
章男氏
ひ孫・章男氏
写真の人物
ひ孫と似てるでしょうか?

 結果として、隔世遺伝といえるか?喜一郎と章男氏が似ているように思いますが、眼鏡のせいでしょうか。まったく手前味噌ですが、章男氏の笑みを浮かべた写真は今回見つけた写真の人物と似た雰囲気があるように思いますが、如何なものでしょう。

 以上二つの祖父、子、孫、ひ孫による血族の肖像比較は、参考程度で、何の決め手にもなりませんが、顔の造形上に見られる遺伝として面白いものがあります。

○ この視察旅行に一人だけ名前の出る人物がいます。米国視察旅行に同行し、その後米国に2年留まり、帰国後佐吉の紡績事業に協力、そして、佐吉と共に上海に渡り、中国での豊田紡織事業を成功に導いたのが西川秋次氏ということで、その成功が、喜一郎が始めた自動車事業を裏から支えたと言う事です。後列、愛子と思われる和服を着た若い女性の隣に写っている口ひげを生やしたもう一人の人物が、視察旅行に同行した西川秋次氏ではないかと思われるので比較写真を掲載します。彼が通訳、或いは交渉役として同行したとすれば、なんとなく口ひげを生やしている理由が納得されます。

若い西川氏
若い頃の西川秋次氏
写真の人物
西川氏とすれば29歳頃

 残念ながら、後年の西川秋次氏は、この写真の人物ほど禿げ上がっていないので、別人だと思われます。が、ひげを蓄えた写真の彼が通訳、或いは交渉係(石原氏ならば弁理士)である可能性は充分あるでしょう。

◎ 後年の西川秋次氏の肖像写真を眺めていて、この人物ではないかと思い当たる顔を見つけました。

若い西川氏
若い頃の西川秋次氏
写真の人物
後列、愛子の隣の隣
後年の西川氏
後年の西川秋次氏

特徴ある額と頭、顔の輪郭及び唇、耳で、五人目の人物が判明しました。

 この西川秋次氏は決定的な要素を持っています。今まで、似てる、似てると思ってきましたが、豊田家の家系内だけでまとまり、後妻浅子に関しては間違いなく彼女であると言う確信にまで至りませんでしたし、豊田家の家族旅行の雰囲気で、これがほんとに視察旅行かと言う思いがありました。しかし、ここで、豊田家以外の人物、西川秋次氏の出現で、この記念撮影が佐吉一行の視察旅行であることが決定的になったと思います。佐吉の口ひげも、工場の空間の取り方も、日本国内の撮影ではない事を示唆していましたが、もし豊田家の人物以外見付からなければ、海外であることも、年代の割り出しも出来ず、なんとなく似ているで終わってしまったかもしれません。西川秋次氏に感謝しなければなりません。これで、接待側の追究に本腰を入れる必要を感じます。

◎ 更に、佐吉の郷里での擁護者の家系に当たる石川藤八氏の肖像画を見た時、一番端のもう一人が見付かったと思いました。(追記 2009/05/10) 改めて、佐吉と石川藤八氏の関係を調べると、七代目とは義兄弟の契りを交わしたとか、しかし、八代目は佐吉の仲人による養子で、結婚後早くに亡くなったとのことで風貌は伝わっていないとのことです。九代目の石川藤八氏は欧米視察旅行当時16歳くらいで、該当しません。ただ、この肖像画が既存の文献では七代目とされていたと言う事で、この写真の人物が、石川藤八氏かどうかは微妙なことになりました。ただ、八代目の生没年が分かりませんが、九代目が実子として、1884年に生まれています。結婚して早くに亡くなったとすれば、10年後としても1894年には亡くなっていることになり、八代目ではないでしょう。それよりも、七代目石川藤八氏の生年月日を調べると、1864年生まれで、1914年まで存命、やはり七代目の方が可能性が高いようです。この肖像画が既存の文献の七代目の肖像である方をとりたい気がしますが、それより、七代目の肖像画と確認されている多少若い時の容貌との比較を試みます。いかがでしょうか? 記念撮影からの拡大写真は鮮明でないのと、一方が画であることを考慮すると、比較は容易ではありませんが、私見では、鼻から口元、顎の形と、眉間の張り出し具合が似ているように思います。いかがなものでしょうか?

七代目石川藤八肖像画
七代目石川藤八肖像画部分
写真の人物
西川氏の隣、後列一番左端
既存の文献では七代目
九代目石川藤八肖像画
九代目石川藤八氏の肖像画部分

 こうなると、前掲載、もう一人のひげを蓄えた人物(石原卯八氏と推定)と、前列右端に腰掛けている和服を着た女性(佐吉妹?)も当時の佐吉、浅子夫妻の周辺を当たれば判明すると思えます。それより、佐吉一行を迎えた、接待側が誰なのか? 1910年頃に、フランスで最先端技術を誇っていた機織工場を調べると見付かるかもしれません。そして、例の和服西洋女性の正体は? 次回に譲りましょう。

 写真を見つけた当初(1990年代後半)、インターネットもそれほど発達してなく、パリに居ては資料の入手も難しく、たまに日本に行っても、図書館に豊田佐吉の資料があるでもなく、佐吉の肖像写真を入手後はほとんど何も進みませんでした。今回、思いついて、日本文化センターの図書館に行き、たまたま居た受付の名前も聞かなかった図書館員の方に豊田浅子の肖像写真を見つけていただき、帰宅後、インターネットで調べると、あろうことか、知多半島歴史研究のサイトから、2006年に出版された「豊田佐吉とトヨタ源流の男たち」と言う小栗照夫著ノンフィクションの紹介記事により、いろいろな写真が見付かり、あっという間に、この写真の人物が判明しました。(これらは「はんだ郷土史研究会」によるものであることが判明し、はんだ郷土史研究会よりの提供と言うことで、画像を使用させていただいています。)今後、招待側の工場主の調査をどう進めるか現在模索中です。
以上で写真による検証休止。

 たまたまフランス人の知人が、背景になっているのがテキスティルの機械だと指摘したことをきっかけに、佐吉と思い込んだ結果、思わぬ物語が生まれましたが、果たして、豊田家は存続するので、迷惑だと、抗議が入るかもしれません。しかし、百年近い前に撮影された写真に関する考察です。事実でない事や、現在に不利益が生じる記述があるならば、受け入れ、訂正なり、消去しますが、知られていない新しい事実を掘り下げられたら、多少文化に貢献できるので、公表するつもりです。
 話は変りますが、知人が何故、背景の機械をテキスティルの機械と直ぐに指摘できたかを考えた時、工業デザインに関する文献にこの工場の写真が掲載されていたのではないか? つまり、それほどこの工場が当時フランスを代表する最新の機械を導入した繊維産業における歴史的なモデル工場だったのではないか?などと妄想を膨らませています。そうならば、この工場主の特定は容易でしょう。ただ、指摘してくれた知人は今何処にいるのか?音信不通です。従って、この機械が間違いなくテキスティルの機械かどうかの確認も出来ません。でも、信じた結果、この写真を物語ることが出来たのだから、彼には感謝します。
 とは言うものの、事実を知りたく、現在、豊田佐吉のヨーロッパ視察旅行について、随行員や訪問先などを豊田佐吉記念館に問い合わせています。ほぼ百年前のことですし、二度の世界大戦を挟んでいるので、資料がどれだけ残されているか、明確な回答が得られるか? 手紙を書いた時は西川氏を見つけてなく、佐吉一行であると確信する以前なので、この写真が視察旅行であるとはっきりとは書きませんでしたが、今は、西川秋次氏の出現で視察旅行であることが決定付けられたと思うので、佐吉記念館から回答があることを期待します。しかし、西川秋次氏はアメリカ視察旅行に同行しそのままアメリカに留まったとあり、欧州視察後アメリカ視察になったのか、この工場がイギリスなのかアメリカなのか、はたまたフランスなのか? 豊田佐吉記念館から回答があれば、解決する問題ですが、ヨーロッパを中心にした世界地図を眺めていて気付きましたが、シベリア鉄道(1904年全線開通)を使って、ヨーロッパに入り、船でアメリカに渡り、アメリカ大陸横断鉄道(1869年に横断鉄道開通)を利用し、太平洋側まで行き(1909年シカゴからのミルウォーキーロードがシアトルまでつながったとあり、そこから横浜へと、勝手な想像)、船で日本に戻るコースが考えられます。しかし、西川秋次氏の回顧談で、アメリカにわたる船の中でとあり、船で太平洋を横断したようですが、これが大西洋であっても良い訳で、文献に因れば、「佐吉の1910年の海外渡航の全てにわたって三井物産が援助した」とありました。三井物産の古い資料が中野の「三井文庫」に保管されていると言う事なので、佐吉の欧米視察旅行に関しては、そっちの方に資料が残っているかもしれません。記念館からの回答を待つ間にも、いろいろ想像します。ヨーロッパ留学などでは船でマルセイユに着いたとありますが、一ヶ月以上の長旅で、結局船賃が安いので選んでいるように思います。三井物産の援助で、別に旅費のことを心配する必要がないとすれば、飛行機が登場するまでは、日本とヨーロッパを結ぶ最速の交通路であったシベリア鉄道を利用した公算が高いのではないでしょうか。そして、家族親類縁者を引き連れた、欧米視察旅行の名を借りた、趣味と実益(この実益の中に、世界情勢視察の特務が加わっていたら、別の物語も生まれます)を兼ねた世界一周旅行だったのではないでしょうか? この写真が、佐吉一行だと証明(記念館からの回答を待たず西川秋次氏の出現で証明)され、詳細が解明できると、いろいろ面白い事実が浮かび上がる可能性があると思われます。そして、三井物産が絡んでいるなら(特務上の必要からも)、海外にいる写真家を佐吉一行に紹介したことも充分考えられ、シベリア鉄道経由ならドイツに寄り、有賀乕五郎(彼は帰国前にドイツ当局にスパイ容疑で逮捕されています)を写真家として雇った可能性も増します。当然、フランスに立ち寄ってから、イギリスに渡り、その後でアメリカへ渡った道筋が考えられます。益々、記念館からの回答が待たれます。この記念撮影がフランスであれば、前記のような事情も考えられ、繊維産業の盛んな地区も限られ、訪問先が判明すれば、意外と簡単に接待者が判明するかも知れません。それより、和服西洋女性のことが気になり始めました。彼女をこの写真と関連付けたのは最近の事で、本格的に検討してはいません。旧帝国ホテル竣工の1922年から第二次世界大戦勃発の1939年の間に日本に滞在していたと思われる女性。期間はもっと狭められると思いますが、外交官夫人としてか?商社駐在員夫人として東京に滞在したのか?豊田家が何らかの理由で個人的に招待したとはあまり考えられませんが、まったく有り得ない話でもないかも知れません。当時の日本での外国人女性を調べるのにどんな方法があるのだろう。新聞記事になっているなんてことはあまり考えられないし。佐吉一行に関しては、記念館の回答を待つより、三井文庫での調査で何かが判るかもしれません。或いは、当時のフランスの新聞、地方紙などに佐吉一行のことが記事になっていないだろうか? いずれにしても今後の調査は容易ではないでしょう。

2008年7月に豊田佐吉記念館の神先氏より回答を頂きました。要点のみを記します。

○ 1910年10月8日に英国に向かう。英国で一ヶ月ほどマンチェスター近郊を視察。

○ 英国に渡る以前は米国で各地を視察。米国で特許の出願を決める。後に申請し取得する。

○ 英国の後、フランス、ベルギー、オランダ、ドイツ、ロシアを訪問。モスクワからシベリア鉄道で中国を経由して1911年1月1日に帰国。

○ 同行者は 日本からの出発時、及び米国滞在中は西川秋次氏が同行し、西川氏はそのまま米国で研修をする。ニューヨークから英国へは石原卯八氏が同行。この二人以外の同行者なし。

○ フランスでは織物の中心地リヨンを訪問。

○ 佐吉に二人の弟以外に妹が一人いて地元に嫁いだ。

以上が神先氏の手紙で知り得た情報です。これ以外に浅子夫人が制作した「佐吉翁胸像」についても訊ねましたので、佐吉の肖像のみ大小数点制作したことも判りました。日本女性肖像大事典に大正期の彫刻家と解説されていたので、どんな彫刻を残したのか気になったので訊ねました。

ということで、豊田佐吉記念館からの回答に因れば、一緒に写っている同行者と思われる人たちにより、この記念写真は欧米視察旅行での撮影ではないことになります。

百歩譲って、一族郎党を同行したとして、西川秋次氏が写っていることにより、ヨーロッパではなく、アメリカでの撮影となります。

二百歩譲って、西川氏もヨーロッパに同行し、途中で別れて、ロンドンよりニューヨークへ向かい米国の研修に就いたと言う推測は可能なのではないかと思いますが、石原卯八氏の肖像写真が入手できないので、今一人のひげを蓄えた人物が石原卯八氏と断定できないことが残念です。

従って、「佐吉の妹が九代目石川藤八と結婚したのかどうか」を年末11月15日に佐吉記念館に問い合わせました。当然このドキュメントのコピーを送ったので、同伴者の件も、再調査をお願いしたことになると思いますが、まだ回答はありません。最初の回答も2ヵ月後くらいでしたので、そのくらいは調査にかかるかもしれません。石原卯八氏の肖像写真も入手してもらえれば確証にまた一歩近づけると思いますが、そうなるとこちら側の調査責任も大きくなります。

肖像写真がインターネット上で見付からないかと思い、「石原卯八」で検索した所、「小説の中の弁理士と特許(2)」桑原英明・中島正次著に:

「豊田佐吉は、明治43 年に特許弁理士−石原卯八を伴い、シアトル、シカゴ、ニューヨーク、イギリス、フランス、ベルギー、オランダ、ドイツ、ロシアと8 ヵ月かけて回り、ウラジオストックから下関へ帰り、その間に米国特許を取得する機会を作っている。」 とありました。

これは、前記、豊田記念館からの回答を補っています。8ヶ月かけたと言う事は、1月1日の帰国から10月8日英国へ向けて出立を逆算して、米国にほぼ5ヶ月(船旅の日数を引くともっと短くなる)滞在したということになります。ただ、「石原卯八」検索で、シベリア鉄道でウラジオストックに着き、其処から下関に帰国したとの記載になっていますが、記念館回答の中国を経由して帰国の記載もあり、インターネットで当時の交通機関を調べると、「1905年までに中国領満州のハルピンを経由してモスクワとウラジオストックを繋ぐシベリア鉄道(一部東清鉄道)が建設された」とあり、ウラジオストックからハルピン経由釜山、下関というのが丁寧な記述でしょう。いずれにしろ、自分の足で調べた結果ではないので、なんとも言えませんが、それを言えば、友人、弟妹、妻子を伴った旅行ではなく、米国、欧州と各一人の同行者のみの簡素な視察旅行と取れるような満州事変以降に出版された豊田佐吉傳の記述をどう読むのか、つまり、書かれていないから単純に同伴者は通訳を兼任した一人だけだったと読むのか、企業家としても成功した世界的発明家、豊田佐吉の伝記に一族郎党を引き連れての物見遊山的な旅行はふさわしくないので、西川、石原両氏が同行したにもかかわらず、二人を米国と欧州に分けたのかもしれません。前記、ウラジオストックから下関に帰国したという記述と同様に、記述の簡素化で、他の同伴者の事を書かないからといって、偽りの記述をしているわけではないと言う理論も成り立つわけですから。関東大震災後に太平洋戦争を経て、多くの資料が失われ、日本に残った資料での確認は難しいかもしれませんが、いずれにしろ、豊田佐吉一行ではないかと思われる写真が出現した以上はっきりする必要があるように思います。

前記二つの資料から、先ずシアトルに渡り、米国に5ヶ月(航海日数を引くと4ヶ月くらいか)滞在し、ニューヨークからロンドン、欧州に渡ったのはほぼ間違いがないと思われます。滞在した米国での写真は1枚もないのでしょうか。米国は特許法が厳しく、写真を取れなかったのか、写真家を伴ってなかったのか。写真家を伴わなくとも、町に観光の記念撮影をしてくれる写真家はいたと思われますが、そんな写真は残さなかったのでしょうか? 米国にも家族弟妹らを連れて行っていたら、彼等が観光地で、ポラロイドの前身フェロタイプの写真撮影でもしていて、それが残されている可能性がありますが、それらがないとすれば、永い船旅は敬遠され、米国には両氏以外は誰も同伴しなかったのかもしれません。或いは、前述したように、有賀乕五郎の写真は関東大震災と東京空襲でほとんど残っていないと同様に、佐吉の欧米視察旅行の資料は戦争ですべて失われてしまい、口伝もなく、豊田佐吉傳に記述されていることが唯一残された欧米視察旅行の文献ということなのでしょうか。

それならそれで、記述が簡素化されていると考えると、一つには全旅程を、この写真に写っている全員で廻ったが、傳記には二人の名前が、米国と欧州に分けて記載されただけだったとの解釈。今一つは、先ず米国へは西川氏が一人で随行(「小説の中・・・」によれば、石原氏も同伴、しかし)、国際特許取得の可能性が判明した段階で弁理士の石原氏に日本から申請資料を持って欧州に来るよう頼み、同時に他の一行の欧州同行を依頼します。従って、シベリア鉄道で、石原氏は欧州へ、家族、弟妹、義弟に随行し、フランスあたりで佐吉たちと落ち合ったというのはどうでしょう。その後に西川氏は研修と石原氏より受取った資料を基に特許申請の下準備をしに米国へ、石原氏はそのまま家族ともども佐吉に随行し、ベルギー以降の国々を視察、モスクワからシベリア鉄道で帰国。このことで、欧州は石原氏だけが随行と記述されてしまうことになった。その後で石原氏は弁理士として特許申請に再渡米したというのはどうでしょうか。今のところ米国での家族同伴の写真はなく、同伴してないと考え、且つ西川氏はそのまま米国に残ったという記述は、単に日本に帰国しなかったから米国にそのまま残り研修を続けたと言う記述になったとすれば、このフランスでの写真に両氏(石原氏については推定)が写っているのはこんなシナリオで説明できるのではないでしょうか。

日本の文献資料での調査が難しければ、ここに写っている欧米人の家族をなんとか探し出し、この記念撮影がいつで、何のためだったのか、明確に出来る可能性が残されていると思いますが、それも簡単ではないでしょうが、豊田佐吉を見つけたように、気長に探すつもりです。

追記 : 2009年2月12日付けの豊田佐吉記念館保存会の吉岡茂之氏よりの御返事に、3枚のコピーが添えられていました。下関に帰国当時の佐吉肖像写真(この記念撮影の佐吉と思われる人物と同様な口ひげを生やした、査定の資料として重要な写真)と既に比較に使用した写真より鮮明な浅子夫人の肖像写真。それに、これも既に比較に使用した若い西川氏の肖像写真でした。そして、「同一人物とは言い難い」と結論付けておられました。加えて「関係者の方々にも確認を取りましたが、皆さん各々同一人物とは思われないという意見でした。」と言う事で、記念館保存会はこの記念撮影に写っている人物達は豊田佐吉とは関係がないと結論付けたようです。再度ここで比較してみます。尚、佐吉と浅子の肖像は田中忠治氏発行の「豊田佐吉傳」より、西川秋次の肖像は西川田津夫人発行の「西川秋次の思い出」よりコピーしたものとのことです。       (写真による検証、再開します。)

記念撮影の人物
写真の人物
佐吉の下関帰国時、口ひげに注意
帰国時の佐吉
章男氏
笑い顔
佐吉の
ひ孫
章男氏
章男氏
すまし顔
写真の人物
記念撮影の人物
後年の浅子夫人
後年の浅子夫人
若い西川氏
「西川秋次の思い出」口絵写真
頭髪部を修正した可能性アリ
洋行時の西川氏
アメリカ洋行時の西川氏
(はんだ郷土史研究会提供)
写真の人物
記念撮影の人物
後年の西川氏
後年の西川氏、傾斜修正
アメリカ洋行時の西川氏の右側に七三に分けた髪型が、記念撮影の人物の髪型と同じことは重要な証左と気付く。(2009/12/2)
改めて眺め直していて、佐吉の下関帰国時の肖像写真の頭部、額にわずかな不自然さを感じます。他の佐吉の肖像写真と比べると、若い西川氏の肖像写真と同様に、当時の慣習か、わずかですが、頭髪の生え際に、写真家の手が加わっているようです。
 尚、浅子夫人に関しては、改めて、記念撮影に写っている女性を同一人物であると再認識いたしました。

保存会からはこの三人以外に何の言及もありませんが、一寸だけ余分に頭を使って考えてみれば、娘・愛子、弟・平吉、後援者代表で親友の七代目石川藤八、加えて佐吉の妹(或いは藤八の妻)の可能性のある和服姿の女性、及び口髭を蓄えた弁理士・石原卯八氏とも推定される男性など、佐吉の周囲の人物の可能性がある人々の姿が一つの記念撮影の写真の中に見出せると言うことがどういう意味を持つか判ると思いますが、傳記に書いてないのだから在り得ないと、頭から無視し、他の人たち及び、妹の嫁ぎ先などについて調べていないようです。この写真が捏造されたものならいざ知らず、偶然に、まったく佐吉とは関係のない人々が、年齢等も同じに、顔つきも似て、記念撮影に納まるものなのでしょうか。そんな事はありえないと普通は思わないのでしょうか。ただ傳記に書いていないことを根拠にして、現実に撮影され残されている写真を無視するつもりなのかもしれません。それはそれで権威とか言うもののあり方かもしれません。ほとんど考えられませんが、この写真がある意図を持って捏造されたとして、何の意味があるのか、推理小説の世界です。やはり意味のない仮定でしょう。以上のことを御推察の上、この記念撮影が豊田佐吉一行なのか御判断ください。

 【追記】 平成21年4月28日付の吉岡茂之氏の手紙を5月7日に受取りました。繰り返し、「佐吉翁の家族が同伴した記述は一切ありませんでした。」という事と、「妹“はん”さんの嫁ぎ先は石川藤八氏ではないことが分かりました。」という事(これにより義弟の文字を削除しました。尚、七代目石川藤八と佐吉は義兄弟の契りをしたとか)、「佐吉翁の欧米視察当時、娘“愛子”さんは、11歳で小学校在学中でありました。」、つまりこのドキュメントの「13歳くらい、現在の中学1年生」という記述の訂正、及び「当方の調査結果と、貴方ご想像の内容の間には相違があることを、貴方ホームページに、より明確に記載いただきたいと存じます。」とのことですので、手紙に書かれた文章をそのままここに掲載いたします。(その後、昭和8年に出版された非売品「豊田佐吉傳」をトヨタ自動車が昭和30年に再版した本が保存会から送られてきたことを遅らばせながら追記いたします。) 
 一応、私信としてのやり取りですが、ホームページ制作は報告してあり、この度ホームページ上に「明確に記載いただきたい」との意向に応じたので、吉岡氏の手紙に対して、こちらの考えも表明したいと思います。手紙に「『頭から無視し』『「写真を無視するつもり』との記述がされていることは、心外です。」と書かれていますが、私が無視という言葉を使うのは、同氏の二通の手紙が「同伴した記述がない」ということと「似ていない」という事の繰り返しで、今回初めて妹さんの嫁ぎ先の回答を得ました。従って、出来過ぎの話はなくなり、記念写真の前列左端の女性は、佐吉の妹か? 石川藤八夫人か? はたまたまったく別の世話係りとして、旅行に同伴した女性か? ということになります。佐吉の妹の嫁ぎ先が、石川氏でないことは佐吉傳を読んで分かりましたが、妹さんの肖像写真は現存しないのでしょうか? 欧州旅行に同伴したとされる石原卯八氏の肖像写真はどうなのでしょう。私が、写真を無視しているというのは、吉岡氏が二人の写真を探す努力をしているとは思えないと言うのではなく、「同伴した記述がない」を根拠にして、口ひげを生やした佐吉翁も、浅子夫人も、西川氏も似ていないと断定し、それに対する反論の手紙に対する返信も、西川氏の若い肖像写真が年代的に欧米視察時に近く、掲載比較している後年の西川氏の肖像写真との比較を是とする当方の主張を否定するだけで、その若い時の肖像写真に対して、はんだ郷土史研究会提供の「アメリカ洋行時の西川氏」の全身写真と共に、頭髪部の修正の可能性を指摘しましたが、それに対する返答はありません。この度の手紙にしても、愛子嬢の年齢推定の間違いの指摘はしても、記念写真に写っている少女と愛子嬢との比較に言及はなく(確かに改めて記念写真を観ると、11歳或いは12歳の愛子譲としては年齢の割には体も背も大きく見えます。利三郎一家の記念撮影の写真によると、愛子夫人が椅子に座っているので確かではありませんが、かなり上背のあった人と見受けられますが)、それにしても、一応ドキュメントで取り上げた人物に対して、同伴した記述がないので馬鹿くさいと思っても、それなりの批判なり評価をするのが礼儀と言うものではないでしょうか。石川藤八氏の肖像画との比較に対しても、弟・平吉と思われると指摘した人物の写真の比較検討に対しても一言の言及がなく、これを無視という以外どう表現したらよいのでしょう。手紙に「現存する信頼の置ける書物等から把握できる限りの客観的事実をご回答申し上げてまいったと考えております。」とあるように、文献における客観的事実として、吉岡氏は「家族の同伴はない」を繰り返し、前記三人以外の人物に対しては何も回答がなく、突然出現したこの写真に写っている人物の比較検討を科学警察研究所のようにしろと言いませんが、保存会側で充分に検討されたとは思えません。ドキュメントでも取り上げていますが、写真の肖像の同定調査が容易ではない事は分かります。しかし、吉岡氏の手紙の「貴方ご想像の内容」と言う慇懃な表現から、この写真の追究結果が荒唐無稽の単なる想像と断定しているようで、当時の佐吉の周囲に性別及び年齢で該当する人物を記念写真の中に見出し、比較検討したことに対して三人を単に似ていないと断定し、それに対する反論も無視し、他の三人の人物にはまったく言及がないことを「無視」と表現した事をどう考えて心外だとおっしゃるのか? 「検討してみたが、返答する必要なし」としたとして、それも無視ではないのですか? 自動織機の各装置の発明が成功するまでは、奇人とも狂人とも噂された佐吉翁を信奉する記念館、保存会なので、かなり期待していましたが、「同伴した記述がない」の一点張りで失望しました。これ以上の調査をお願いしても意味がないと思いますので、これで、この写真に関して、豊田佐吉一行ではないとする豊田佐吉記念館並びに保存会との連絡を終了し、独自に調査を継続するつもりです。多少なりこの記念写真が豊田佐吉の欧米視察旅行の一行である可能性を感じた方は継続調査の結果を御期待ください。また、佐吉の欧米視察旅行の情報、妹はんさんの肖像、石原卯八氏の肖像がありましたら御連絡ください。それによって、この記念撮影の写真の真実がより明らかになるでしょう。尚、保存会から送られた豊田佐吉傳に掲載されていた浅子夫人の鮮明な肖像写真で、記念写真中央に写っている女性が豊田佐吉の後妻浅子夫人であることを確信できたことを申し添えます。読者各位様も再度比較写真で、ご確認ください。


 単なる思いつきで申し訳ありませんが、イメージを追加させていただきます。

はん?
写真の女性
喜一郎
豊田喜一郎
写真の人物
写真の人物

この三人に同じDNAを感じてしまいますが、いかがなものでしょう。


【追記】 当時の愛子の年齢間違いを指摘されたことにより、愛子ではないかと査定した少女が左側の三人の日本人男性に比べて大きく写っている事に気付き、成人男性よりよほど大きいとなると、年齢からして大女ということになってしまい、改めて何度も写真を見返しました。すると、記念写真後列左の三人の日本人男性が、わずか後方に下がっている為に多少小さめに写っているので、愛子と思われる少女が、直ぐ左の男性に比べて大きく見えると理論的に解釈できることに気付きました。つまり、後列左の三人の男性が、相手側の家族と佐吉の血族関係を中心にした記念写真を意識し、わずかばかり離れて記念撮影に参加したと解釈すると、後列左の三人が、左から、石川藤八(親友で後援者)、西川秋次(社員、浅子の遠縁で佐吉の薫陶を受け片腕となる)、石原卯八(弁理士、同年、同郷)の可能性が充分あり得ることになるのではないでしょうか。そして、前列左端の女性は、佐吉の親族、つまり妹はんの可能性が大きくなり、同時に、前記のDNAも、単なる思いつきに説得力が加わります。以上のことを記念写真で確認してみてください。(2009/05/13)


記念撮影写真を観て確認


【重要な追記】(2009.08.22)

 7月20日に初めてこのホームページに関するメールが届きました。しかも、あろうことか、石原卯八氏のひ孫に当たる方からでした。石原卯八で検索して、このホームページを見ていただき、石原卯八氏と推定した肖像に関して『多分、曽祖父の卯八です。卵形の頭、薄い頭髪、大きな耳、そして目、特に若いうちから禿げるのは石原家の伝統』との石原家の人々の顔の家系的特長を教えていただき、その上、石原卯八氏の肖像がありましたらとの求めに応じて、昭和20年5月の東京大空襲で高輪の家が消失したため2点しか残っていない卯八氏の肖像写真を探してメールでお送りくださるとのことです(震災と戦災でほとんど消失してしまった写真家有賀乕五郎氏と同様のことがここでも起きていました)。豊田佐吉の欧州視察旅行の文献に佐吉に同行したとただ一人明記される、石原卯八・弁理士(特許・実用新案・意匠または商標に関する登録出願等の代理もしくは鑑定などを業とする者。一定の資格と弁理士登録簿に登録することを要する。−広辞苑より)ではないかとこの写真で推定する人物が、2点しか残されていない石原卯八氏の肖像写真によって、間違いなく同一人物であることが確認されれば、この記念写真が豊田佐吉の欧州視察旅行の一行であることがほぼ確定され、写っている日本人が佐吉とその妻・浅子、娘・愛子、弟・平吉、妹・はんと思われる親族と、佐吉と親密な石川、西川、石原の三氏であることがほぼ確実になります。期待に胸が膨らみます。

 7月26日に石原卯八氏の肖像写真がメールで送られてきました。
   
若い肖像年配の肖像


 第一印象は、正直困惑でした。ご子孫(以後 I 氏とします)からのメールに「卵形の頭、薄い頭髪、大きな耳、そして目」とあったので、この記念写真で石原卯八氏と推定する人物とよく似た写真が送られてくると期待していたので、この二葉の肖像写真を見た時、どう対処してよいか、期待が大きかった分、戸惑いを覚えました。僅かに横を向き、未だ髪が後退していない、豊かな肉付きの頬を持つ若い時の肖像。ふくよかな、恰幅のよい、かなり禿げ上がった、功なり名を遂げた人物の雰囲気を持つ年配の肖像。それに引き換え、真正面を向いた推定人物の頬は、ぺろっとした感じで、加えて、顎の出張った稜線から来るイメージの違いで、とても同一人物には見えず、この人物が、石原卯八氏ではないとすると、今まで調べてきた結果が、総て独りよがりの単なる空想に過ぎなくなり、佐吉も浅子も去って行ってしまいそうな、そんな心細さを覚えました。

 石原卯八氏の二葉しか残されていない肖像写真によって、卯八氏と同一人物とは思えない推定人物を、「同一人物でも撮り方によってはまるで別人のように写ることもある」(事実ありえることですが)として、あくまでこの推定人物を、佐吉に随行した唯一名の出る石原卯八氏に違いないと、どのようにしたら主張でき、読者を納得させられるのでしょうか。

 それより、推定を撤回し、「別人でした」と謝る方が、潔いかもしれません。そして、この人物を、佐吉の欧米視察旅行を物心両面で援助した海外に駐在員を持つ三井物産の誰かと推定を変更することも出来なくはないでしょう。米国では、ニューヨーク支店長をはじめとして、三井物産の人々の歓待を受け、機械掛を案内人として各地の工場を視察したと文献にあり、ヨーロッパでも同じことがあって不思議はないはずです。

 しかし、今まで佐吉のごく身近にいた人物を、記念撮影の中で特定してきた経緯を考えると、推定人物が、やはり、欧州視察に同行したと文献に明記される石原卯八氏であるのが、一番妥当だし、この記念写真が欧州視察旅行のものとすれば、卯八氏の存在は必要不可欠です。さりとて前記の「別人のように写る」を根拠にして事が足りるわけはなく、不可欠だから推定人物を石原卯八氏だとするわけには行きません。

 かといって、雰囲気及び顔の輪郭の違いに対して、安易な分析で類似性を提示しても、それが、誰でもが頷けるものでなければ、思い込みで自己暗示に掛かり、こじつけているとしか理解されず、今までの、他の人物の比較検討さえ、単なるこじつけに終始しているとされかねない、最悪な結果になってしまうかもしれません。数日は頭の中が空白になりました。

 しかし、この記念写真が、本当に佐吉一行のものだとすれば、石原卯八氏が写っていないわけはなく、残った唯一の人物が、推定通り石原卯八氏でなければならず、もし、そうでないなら、潔く、この記念撮影写真が豊田佐吉の欧州視察旅行のものではなかったと訂正、謝罪し、このドキュメントを消去すべきではないか。そうしたら、豊田佐吉記念館保存会とのやり取りは何だったのだ。10年以上の歳月、写真に抱き続けた思いは。このまま消去してそれで済むものでもないだろう。200人に満たない、このドキュメントを読んでくださった人に対しても、それよりも、このドキュメントを見て、メールで二葉の石原卯八氏の肖像写真を送ってくださった I 氏に対して、推定人物が、卯八氏であると証明できなくとも、別人であるかどうか、それなりの結論を出さなければ、申し訳ないと思い返し、三葉の肖像写真を眺め続けました。

 先ずは、記念撮影の中で、石原卯八氏と推定した人物の拡大写真を観てください。デジタルカメラの性能に多少不満がありましたが、先ず、左の写真で検討しました。しかし、もう少し鮮明な画像の必要を感じ、スキャナー(使用を避けていたのは、強い光で写真が損傷するからですが、そうも言ってられない状況を鑑みて、使用に踏み切りました)の最大解像度で取り直しました。その肖像写真を、右に掲載します。


デジタルカメラ
デジタルカメラ画像
スキャナー取り込み
スキャナー画像


 双方同じイメージなのは当然ですが、印画紙の表面の凹凸がないスキャナーの写真に張り替えた方がよいと思い、張り替えて再検討しました。

 推定人物が卯八氏とすれば、頭髪の禿げ上がりから、二葉の肖像よりも年齢は上と推測できます。二葉の写真の撮影年月日の記載がなく、未詳なのは残念ですが、逆に推測に可能性が生まれます。没年を調べていただいた所、大正二年(1914年)八月に肝臓ガンにて急逝されたとのことです。佐吉と同年なので、単純計算で享年47歳でした。当時の平均寿命を調べると、明治42年〜大正2年は男44,25歳、女44,73歳でした。統計からすれば、平均寿命より長生きしたことになりますが、同い年の豊田佐吉のその後と比べれば、四十代後半、道半ばの急逝といえるでしょう。

 豊田佐吉が欧州視察から下関に戻ったのが、明治四四年(1911年)一月一日。従って、石原卯八氏は帰国後、三年八ヵ月後にガンで亡くなられたことになります。このことを念頭に置いて、三葉の肖像写真の比較を始めます。

 先ず、一葉目の写真は弁理士になり、若く、希望に燃えている時期のものと思われます。もう一葉は、弁理士として成功し、政財界に縦横に活躍していた(これに関しては、豊田佐吉傳に明治39年創立の当時としては珍しい資本金百萬円の大會社、豊田式機織會社の東京での発起人の一人として記載されています。そして、 I 氏のメールによると「卯八は当時の清浦奎吾首相を影で支えた存在で、清浦氏から電話で一樽頼むと連絡が来ると300円を送金する約束になっていたそうです。注 : 日本銀行の物価指数から明治44年の300円を平城20年でいくらかの金額になるか換算すると、1,209万円になります。当時が明治何年になるかわかりませんが、一樽は1千万円くらいの金額になると思われます。ついでに清浦奎吾首相を調べると、内閣を組閣したのは1924年(大正13年)で、5ヶ月の短命だったとか、従って、卯八氏とは首相になる前の、山形有朋に繋がる官僚政治家の中心人物で、貴族院の勅撰議員の時代からの付き合いで、政治資金を用立てていたということでしょうか。(中略)清浦氏からも故郷の静岡県三ケ日に追悼碑がおくられております」ということです。)そんな時期の肖像と思われます。

 それに引き換え、記念写真の推定人物は、頭髪の後退もさりながら、ふくよかさは微塵もなく、一寸目にはとても同一人物とは思えません。何度も眺めて、現存の肖像と推定人物の相違点を煎じ詰めると、石原卯八氏が帰国後四年経たずして病没した事実を、もし推定人物を卯八氏とするならば、潜在する病因で、体重が減り、顔のふくよかさもなくなり、顎の鰓が際立って見えるようになっていたのではないかと、有り得る肉体的変化を想定することで、比較検討が可能になるのではないかと、ない知恵を絞って考えました。


若い肖像推定人物年配の肖像


 いかがでしょうか。前記の想定をせずに比較検討をすることは無駄に思えます。逆に、前記の仮定を受け入れられれば、それなりに可能性が見えてきませんか。それにしても、真ん中の肖像の耳が際立って大きく見えます。

 DNAを共有する I 氏のメールにある「卵形の頭、薄い頭髪、大きな耳、そして目」と言う石原家の特徴を推定人物が持っているので、記念撮影に写っている人物が、ひ孫の方の印象から、多分、曽祖父石原卯八であろうとされ、(但し、推定人物の拡大写真をメールで送った後、未だ返信がないので、 I 氏も断定を保留しているのではないかと思いますが)可能性は僅かながらあるのではないかと思います。豊田家四代の顔写真を並べて、顔の造形上に見られる遺伝を確認しましたが、親族はどこか雰囲気が似ると思うし、理屈ぬきに、なんとなく感じるのではないかと思います。従って、 I 氏のご親戚の中に、この推定人物に似た方など居られたら心強いし、帰国後から亡くなられるまでの四年未満、卯八氏がどのような健康状態であったかがわかるとはっきりすると思いますが、難しいかも知れません。 I 氏の助言を心待ちにいたします。

 三葉の写真を見比べ続けます。

 この度は、見た目の違いがかなり顕著なので、周到な準備をして、後妻浅子の時に試みた、眉、目、鼻、口、顎の間隔の比較を試みます。
 若い時の肖像とは頬のふくらみを除けば問題はなさそうです。顔の傾きは修正したほうがよいでしょう。
 年配の肖像写真は、見た目にも、鼻の下の間隔が間延びしています。カメラアングルによるのでしょうか。現像のときの操作によるものか、送られてきた二葉の写真同士の比較でも下あごの間隔は差が出ます。口は閉じていますが、歯を噛み合せなかったので、下顎が少し伸びたのか。顔の部分で下顎が間延びしても、特に問題にならないでしょう。若い肖像より横向きの年配の肖像は、顎がよく写っていて、それなりに出張っているようにもみえます。
 参考資料として掲載します。スキャナーで取り組んだ写真は、ワードに同じピクセルで張り付かないので、写真の変更が出来なかったので、アルバムに貼り付けた写真の比較と両方掲載します。

 参考資料1.

デジタルカメラの写真使用

スキャナーで取り込んだ写真使用

 平行線による間隔調査結果の分析 :

 最初の若い肖像との比較は顔の傾きの修正をしたので、かなり正確に比べられました。ご覧のようにほとんど同じです。2点の比較映像を掲載するので、かなりはっきりと確認できるのではないでしょうか。改めて観察して、スキャナー版の若い肖像との比較で眉の線が多少ズレているのが気になりました。眉が薄く、形も同じではありません。眉は感情の表出で、顎同様に、上下に動きます。推定人物の黒目と白目の配分から目を見開いている印象も受けます。故に、眉毛の形も違い多少上に上がっていると解釈してもいいのではないかと、分析いたします。彼はかなり緊張しているのではないでしょうか。スキャナー版は耳の大きさも調べました。問題は見出せません。年配の肖像写真との比較は、右の顎の平行線と、口の平行線との交点から推し量って顎を調べると、推定人物の顎の角の位置が同じで、肉が落ちた時にそこが際立ったと推測することが出来そうです。
 年配の肖像写真との比較で、下あごの間隔がズレますが、前記のように、ほのかに笑みを浮かべて見える顔の表情から、歯をかみ合わせないので顎が僅か間延びしたのではないかと解釈できます。この下顎の差は、同一人物とされる若い時の肖像写真との比較でも確認しているので、特に問題はなく、今のところ、比較を継続するのに支障が出るほどの大きな相違は見られず、どちらかというと、類似には好資料を提供していると思われますが、手前味噌の解釈でしょうか。特に、年配の肖像に見られる頬と顎に、推定人物の顎の出張った形が肉付きの下に隠れているように想像され、問題の外形の違いも修正できると思います。
 ふと思いましたが、年配の肖像写真が笑みを浮かべ歯をかみ合わせていないと推測したのなら、推定人物が一人硬直したように見え、緊張から奥歯をかみ締めているのかもしれないと想像する事も出来ます。そうすると、顎の筋肉が硬直して、顎が角張り、写真上の顎の形が二葉の卯八氏の肖像写真の顎とは違った形に写ることになります。これは想像としても、あり得ることで、そう推測することによって、推定人物の顎の形の違いが別人であるとの本質的な根拠にはならないのではないかと、そう思いました。こじっけぽいので参考意見としてください。しかし、何故、彼一人が緊張していたのか。もしかしたら、弁理士として一番この場の状況を把握していたからではないかという解釈は、どうでしょうか。それは工場主が横を向いている問題と呼応させると何かが見えて来そうです。それはそれとして。
 この顔の輪郭に関しては、若い時の浅子とされる肖像写真と、浅子と推定した女性の顔の輪郭の比較にも見られます。それは写真という映像が持つ宿命、つまり、ほんの少しの角度の違いで、平面的に違った形に写ったり、瞬間的な力みや弛緩の表情が定着してしまうからなのか。力みという言葉から、浅子の顎と卯八氏の顎を思って、寒さゆえに奥歯を噛み締め、結果、顎が角ばってしまったという分析は成り立つでしょうか。
 取り敢えず、顎の出張りの問題は、贅肉が落ちたからとして、平行線の調査結果は推定人物が卯八氏と決定出来るものではありませんが、別人であるとの結論にも至らず、類似点の追究に支障はないとし、検討を続けます。

 参考資料2.
推定人物
推定人物の左半面
若い卯八氏
若い卯八氏の左半面

二つの重ね合わせ

 個人的印象に過ぎないかもしれませんが、若い肖像と、推定人物の左目の形と下まぶたがよく似ていると思えるので、その比較を拡大して試みました。年齢の差で、禿げ上がりが違い、額の広さが違って見え、そこに眼が行くのを避けるため頭部をカットしました。
 これで見ると、鼻の形も、その下の口ひげも、小さめの口も似ていて、半面だけの比較ではかなりの類似性を認められると思いますが、これはどんな形で評価すべきものでしょう。顔の一部が似る事など赤の他人でもありうること、でしょうね。
 と思うものの、一応重ねた画像も作ってみました。耳の見え方でわかるように、顔の向きが多少違うので、側面の頬の幅と傾きが合っていませんが、目、鼻、口、口ひげが重なっているように見えます。目鼻口は顔の表面に位置するので、顔の向きによって大きく変化はしませんが、耳は顔の側面にあり、正面から距離があるため、僅かな角度により見え隠れし、形が変ります。頬の傾き、顎の外形も同様です。この重ねた画像の結果は思わぬ収穫かもしれません。他の人物にも試みましたが、いずれも多少ズレが起き、顔つきが変化してしまいます。ミレーの重ね画像よりもぴったりな気がします(参照したい方は「古写真を足で追うドキュメントの世界」の第1章の末尾をご覧ください)。側面の顎の部分に注意をすると、奥歯を噛み締めた筋肉のふくらみに見えます。これも思い込み、或いは錯覚でしょうか。針小棒大。舵修正。冷静に判断して、目と鼻に関してはほぼ一致しているように見えますが、この程度は、別人でもありうること、でしょうか。

 ここで、比較検討を一休みして、どうしたら、印象の違う肖像写真を同一人物と説得できるのか考えてみます。部分は似ているけれど、それを総合すると違う顔に見えるという場合と、また逆に、部分の比較では、似ていないけれど、総合するとよく似て見える場合、特に、写真による同定作業などでは、なんとなく似てみえるという印象よりも、やはり、部分的な類似を重視すべきでしょう。(といいながら、なんとない印象で査定を進めているような気もしますが、裏付けの取れない直感とでも言いますか、危ない危ない。話を戻して)各部分の大きさの比較、角度、付き方、当然表情による変化も加味しなければならないでしょう。怒った時と、笑っている時では目の大きさ、鼻の形、口の結び加減が違うので、簡単に比較できない場合もあるでしょう。顔の向き、カメラの位置、撮る角度、それによって、微妙な長さや形の収差が生まれてしまうでしょう。それらを出来る限り修正しながら、比較検討するとすれば、それには光学的な科学知識、写真の知識、加えて経験が必要だと思います。となると科学的調査と言う分野になり、とても無理です。ではなんとなく似ているという程度で処理するのでしょうか。それも何か物足りない気がします。かといって、中途半端な比較で、お茶お濁しても、納得が得られなければ、意味のないことです。第六感を信じろといった方が、まだましかも知れません。支離滅裂になりかけています。

 太っていた人が痩せた場合は、年齢による老化の変化より極端なものがある気がし、比較が多少難しいかも知れません。休みついでに、話題を少し変えてみます。

 何故、このような古い写真に写っている人物の追究を始めたのか、そして、それにのめり込んだのか、そして、その査定結果が、必ずしも多くの人の支持を得られない点で、反省を含めて考えてみました。この行為にどんな必然があるのか。何が、これら一連のドキュメントの中に隠されているのか。それを書く意味があるのか。当然、この写真に映像として残されている事実は、間違いなく存在した出来事です。たぶん写真が発明され、光学的、化学的に映像として残された記録そのものに誰も異議はないはずです。ただ、そこに写されている人物が、ドキュメントで推定した人物であるかどうか、誰の興味も惹かず、正式に取り上げられていないため、話題にもならず、写真に残されている記念撮影が行われた事実が歴史的なものとは認められない、そのため、このドキュメントを書いているわけです。写真撮影が行われた事実が文献などによって(日記や手紙により撮影者或いは撮影年月日などが)確認された場合は、公認される可能性が充分あると思いますが、出所が不明な写真で、ドキュメントで試みたように、確定している肖像写真に因る類似性、歴史的事実によるあり得る状況などでは、公認されことはまずないでしょう。それを知りながら、何故続けたか、それは自分の能力を信じているからと言うしかありませんが、その実、もしかしたら、神秘的な能力が、生まれつき備わっている、超能力者なのではないかと漫画チックに想像したこともありました。しかし、今は、超能力ではなく、少しだけ他の人よりは、人間の顔に関して分析、解析能力があるからではないかと思っています。三点のドキュメントに書かれた記念撮影写真に写っている人物に関して、今も、間違っているとは思っていません。当時の写真に映像として残っている限り、それが事実あったことであり、それが証明される事によって、人間の歴史がほんのわずか豊かになるかもしれないと思うので、認められるまでに時間が掛かるのを覚悟でインターネットに上梓しました。それは本当に僅かな事で、大半の人たちにとってはどうでもいいような僅かなことに過ぎません。しかし、せっかく(このドキュメントの調査の過程で、どれ程多くの写真が保存媒体の可燃性ゆえに戦争等の災害で失われてしまったかを考えると、せっかく人類に遺された文化遺産なのだからと思います)、19世紀に発明された写真に映像として定着された人物像が存在し、その人物像を他に残された肖像によって特定できたら、消え去った過去の記録をよみがえらせる事が出来、人間の過去の歴史をほんの僅か豊に出来る(逆に、政治的意図で、写っていた人物を記録写真から消してしまう事で、過去のある事実を変えようとした歴史もあることを考えてください。過去にはネス湖のネッシーやUFOの写真などの捏造写真の例もありますがそれはほんの一部の心無い人々の作為で、不詳の人物を特定するのは)、それなりに意義のある人間的な行為だと思うからです。加えると、写真の歴史は浅く、記録媒体としては非常に有効ではありますが、その活用に関しては、まだまだ開発されるべき分野があるのではないか。特に過去に記録として残された映像に関してやっと保存の気運が生まれたくらいで、先進的な分野へ多く興味が先行し、文化の記録保存の分野は立ち遅れているのではないかと思います。時として、機密事項として公開されないこともあり、逆にそれくらい、映像として残ったものの価値が高いということでもありますが、多くの未知の映像が埋もれていると想像され、少しでも、それらに光が当たるようになればと思い、労を厭わず続けてきたわけです。コンピュータがいかに発達しても、多分、コンピューターが自主的に問題を取り上げるわけはなく、もっと端的に言えば、コンピューターのスイッチを入れるのは人間であり、問題を選択するのは人間にしかできない事で、個々の分析能力だけを問題にすれば、コンピューターの方が何千倍も高い能力を持つでしょうが、分析すべき問題を取り上げる選択は人間だけの能力です。従って、一部の権威者が往々にして間違える、前例がないとか、文献に書かれていないとか、この事実と合わないとかで直ぐに否定せずに、コンピューターではない人間が提起する問題をもう少し真摯に検討して欲しいと思い、集めた資料を基に出した結論を添えて、インターネットでの公開に踏み切ったわけです。「別人であることを、本質的に示す根拠はない」というかたちでも、いつかこれらの写真が真摯に観てもらえると信じています。それにしても、何故、偶然にも三度、同様なことが起きるのか、その分析をしてみます。

 このドキュメントが載っているホーム・ページの表紙をご覧になればわかると思いますが、子供の頃から彫刻をしてきました。最初は木彫で、アメリカ・インディアンのトーテムに刻まれたような、或いはアフリカの黒人彫刻のような、プリミティブな誇張された人物彫刻でしたが、段々写実的な肖像彫刻になって行き、人の顔がどんな形なのか、夢中で研究した記憶があります。それもかなり若い十代にです。そのことはその後の興味の対象の変遷の中で忘れていましたが、何故、人の顔の類似性に関してここまで鋭敏に反応するのか考えた時、十代前半で、顔の各部分の形に関して、かなり熱心に研究(一連のドキュメントを読まれた方には想像できると思いますが、かなり偏執的情熱を注いで)していたことに思い当たりました。忘れるぐらい子供の頃の事で、それが大人になってする行動の遠因であるとは思いもよりませんでした。人の顔の分析に関する情報が若く新しい脳細胞にかなり深く刻み付けられたのかもしれません。意識に上らずに分析をし、例えば、ミレーの写真の場合のように、文庫本の口絵の自画像デッサンで、馬面の人物をミレーかもしれないと思うのですから、本当なら、尋常なことではないでしょうが、作り話ではありません。それは、人に教わったわけではなく、彫刻が好きで、手探りで、人間の顔を立体で再現している間に、自然に、写真などの平面である映像でも、立体に見、感じる能力が培われたと言う事なのかも知れません。これが、一連の人物査定に懸ける情熱と自信の裏付けです。ただ、石原卯八氏によって自信はかなり揺らいでいますが、なんとか踏ん張って続けます。急に、彫刻とほぼ同時期に考古学に興味を持ち、縄文土器のかけらを拾い集めていたのも、この一連の写真の査定作業に結びつくことに気付きました。考古学は、文献に残されていない有史以前の出来事を発掘作業によって解明してゆく学問で、この古い写真の解明が、発掘作業に似ていると思うと、「雀百まで踊り忘れず」という諺が浮かびます。

 話を元へ戻します。今回、 I 氏から送られてきた二葉の石原卯八氏の肖像写真と、別人としか思えない推定人物を見比べて、最初に似ていると思ったのは、鼻です。小鼻の形が同じです。そして、鼻の先が多少の厚みがある形もよく似ています。木で顔を彫る場合、原木を眺めて、掘り出す像の大きさを想像して、鼻の長さと小鼻の幅を顔の寸法基準にして彫りはじめます。鼻は顔の中央にあり、その上、一番出っ張っているので、一番最初に現れる部分です。といって、肖像写真の同定作業を鼻からはじめると決っているわけではありませんが、どうしても一番先に眼につく部分で、鼻が取っ掛かりになることは間々あります。最初のドキュメント「写真:ミレーと6人の画家たち」の端緒になったのが画家ブーダンの鼻の形でした(古写真を足で追うドキュメントの世界の「第5章写真の人物査定の発端ブーダンを語る」参照)。鼻の長さや形は重要な決め手になるでしょう。次に似ていると思ったのは目で、 I 氏の言われるように、かなりはっきりした切れ長の目が印象的です。次は、明瞭とはいえませんが、口ひげと、大きくはない口の形。次に大きな耳。スキャナーで取り込んだ写真で耳の比較をしました。大きさも形も問題ありません。頭髪の右こめかみの部分の類似に関しても問題がないと思います。禿げ上がり具合は、血筋とか、年齢相応に進行したようです。顎の先端部に関しては、肉付きに問題がありますが、形としての問題点はないようです。しかし、全体の印象は、必ずしも似ているといえるものではありません。部分比較の写真を掲載します。

参考資料3.

若い肖像
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年配の肖像
推定人物
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若い肖像
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年配の肖像
推定人物
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若い肖像
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年配の肖像
こめかみ
推定人物
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若い肖像
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年配の肖像
推定人物
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若い肖像
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年配の肖像
推定人物
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 部分の造作に関しては、比較画像が大きくなく、良く判断できないかもしれませんが、今回幾つもの比較写真を掲載しているので、この画像は部分を取り出しての比較ということで、参考と言う程度でご了承ください。それより問題なのは、推定人物が、全体に頬や顎の肉が落ちている感じで、そのためと思われますが、頬のぽっくりした形も見られず、鰓顎の形がはっきり現れて、二葉の現存する石原卯八氏の肖像写真が正面を向いていないということもあり、頬の感じと顔の輪郭から来る印象で、同一人物には思えないということです。
 前記したことですが、石原卯八氏は欧州視察旅行から帰国後、3年8ヵ月経った大正2年8月に急逝しています。この記念撮影の工場主家族の着ているオーバーコートから想像して、冬期、つまり1910年の冬に撮影されたと考えられ、11月か12月とすれば、この写真が撮られた後、3年と9〜10ヶ月後には癌で黄泉の人となられているわけですから、既に体重も減り、顔も痩せぎすになっていた可能性は充分あると推測されます。それに関しては I 氏から、メールで「英国滞在中のエピソードとしては有名なサビルロウで背広をあつらえようとしましたが大人用ではなく子供用の型だと言われたそうです。決して小さな男ではなかった筈ですが当時の日本人の体型を忍ばせる話です。」という貴重なエピソードを頂き、「決して小さな男ではなかった筈」の部分に注目すれば、年配の肖像写真の恰幅のよさから「子供用の型だと言われた」という話は、その時既に痩せていたからではないかとの推測の裏付けになるのではないかと思いますが、重要な問題なので、 I 氏に確認したいと思います。しかし、石原卯八氏没後95年が経っているので、文献か口伝に残されていないと、確認は難しいと思います。晩年の健康状態が、どんなものであったか、メールには急逝されたとあり、長く病臥されていたわけではないようなので、3,4年前から痩せていたかどうかの確認は難しいでしょう。
 改めて問題点を絞れば、記念撮影で推定される人物が石原卯八氏かどうかの確定は、ひとえに、石原卯八氏が、二葉の現存する肖像写真の時よりも、43,4歳頃は頬の肉が落ちるほど痩せていたかどうかにかかるようです。

若い肖像年配の肖像推定人物
年齢順に肖像を並べてみました。同一人物の年代による変化に見えるでしょうか。一番右の人物が卯八氏とすれば43,4歳。その歳あたりで、卯八氏が痩せていたことが確認されなければ、同一人物であると断定する事は難しいと思われます。逆に、晩年は痩せていたことが確認されれば、この推定人物が、石原卯八氏であることの可能性がかなり大きなものになるでしょう。

前に、お龍の30歳と60歳の写真の鑑定を警察庁の科学警察研究所がした新聞記事を取り上げましたが、参考資料として、再掲します。
30
お龍30歳
60
お龍60歳
30歳の年齢差での比較で、60歳のお龍と認定されている肖像は頬がこけ、おでこも広がって、老いは明瞭ですが、若い時の面影は充分に残っています。

 石原卯八氏の場合はどうでしょうか。半身像を比較して見ましょう。
年配の肖像推定人物
これを見ると、意外と科学警察研究所に鑑定を依頼すれば、「別人であることを、本質的に示す根拠はない」という鑑定結果になるかもしれません。それにしても、推定人物の年齢を43,4歳として、この二葉の写真の年齢差をどのくらいと仮定出来るでしょうか。それからすると、年齢による変化であるより、病因による変化と考えた方が自然で、そのことが証明されないと、見た目の類似では推定人物の細身の雰囲気が「別人であることを明瞭に示している」という印象を招きかねません。

 最後に、参考資料1、2、3からは推定人物と卯八氏は似ている部分があることを認めていただけると思いますが、正直、後年は痩せていたという条件を満たせなければ、記念写真に写っている人物を石原卯八氏と断定する事ははばかられます。推定人物の肖像写真を、石原卯八氏のひ孫に当たる方から送られてきた二葉の石原卯八氏の肖像写真の間に挟んで、三葉の肖像写真を並べて印刷し、見比べ続けると、目、鼻、口の、顔の中心造作が、同一人物であると語りかけてくるような、そんな気持ちになったことを記し、その写真をここに掲載して、読者の良識あるご判断にゆだねたいと思います。
三葉の肖像写真

 最後の最後に、たとへ、今回、石原卯八氏が後年に痩せていたかの確認ができず、推定人物の確定にいたらなくとも、今は石原卯八氏と思えるので、決着をつけるために、リヨンへ行き、工場主一家を探し出して、佐吉の軌跡を調べ、この記念撮影写真の来歴を明らかにしたいと思っています。そして、この一連の出来事が、正に、考古学の発掘作業と同じ気がしてきました。PCで追うドキュメントが、最後は足で追い手で探るものになりそうです。また、かなり(可能な範囲の想像による)推理で分析を進めている部分があるのではないかと反省するので、全編にわたり、言う所の思い込みによる「こじつけ」にあたると思われる記述を指摘していただけたら幸いです。ご意見をお聞かせください。

 ほぼ一ヶ月、石原卯八氏の肖像写真を見続け、今までの経緯から、推定人物を卯八氏と思い、同定のための比較検討をいろいろ試み、【貴重な追記】として書き上げました。アップロードして、一段落。しばらくこのことは忘れました。一週間経った今、落ち着いて見直すと、顔中央の造作を見比べる限りは、この推定人物を石原卯八氏だとしてもおかしくないと思えます。そして、このサイトを見て石原卯八氏のひ孫に当たられる方からメールが届き、結果、卯八氏の二葉しか残されていないという貴重な写真を送っていただき、お陰で比較検討が出来たことは I 氏に対する感謝は勿論、インターネット時代の賜物と感激、本当にサイトに公開して良かったと思います(アクセス件数は今一ですが)。インターネットの可能性を確認できた事も収穫です。曽祖父に間違いないと思われて写真をお送りくださった I 氏には申し訳ない事ながら、誰が見ても間違いないというほどの確定までにはいたりませんでしたが、可能性は充分ある結果を得たと思っています。今回、推定人物に関して、拡大写真を見られて、1910年末に欧州にいた可能性のある似ている人物を知っている方はご一報頂きたく、改めてお願いいたします。ご子孫にあたる石原家には二葉の肖像写真しか残されていないとのことですが、他に石原卯八氏が写っている写真があるかもしれません。そんな情報をお待ちいたします。また、佐吉の妹はんさんの肖像の情報もありましたらご一報ください。お願いいたします。

【追記 2013/03/13】   『リヨンの結果を、ご期待ください。』と書きましたが、いまだリヨンへは足を運んでおりません。リオンの繊維博物館のサイトは見ましたが、両世界大戦前の資料が短期の滞在で見つかるかを考えると、何度も足を運べる距離ではないので、足による調査には限界があり、破綻しかねません。日本での調査も同様です。でも、決意を新たに、追い続けるつもりです。



著作権について 著作権に関しては充分尊重したいと思いますので、著作権者の方が不正使用だと判断されるなら、即座に削除いたしますのでメールにてお知らせください。このサイトは、偶然見つけた写真に写っている人物を豊田佐吉ではないかと思い込み、その査定のため、どうしても画像による比較が必要になり、インターネットのサイト及び書籍から画像を無許可で取り込みました。営利を目的に画像を使用しているわけではない点を著作権者様にご理解を頂き、掲載許可をいただけたら幸いです。特に豊田家の人々に置かれましては世界に冠たる自動車産業を担う公人として、産業界の顔として、寛容な御配慮を頂きたくおもいます。また、読者の皆様におかれましては、著作権に充分のご配慮を頂き、商用利用等、不正な引用はご遠慮くださいますよう、よろしくお願いいたします。

メールアドレスです。 enomoto.yoshio@orange.fr
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