クールベとルソー、他に7人の画家たちが写っている写真を物語る



ここで常套句 「そして、或る日偶然に」ホイッスラーの展覧会がオルセー美術館で開催され(1995年)、同時に、ロダン美術館でロダンによる、国際芸術協会会長を務めたホイッスラーを称える記念碑の彫刻の制作過程の展示がありました。その中に試作の石膏像の写真にロダンの描いた「いたずら描き」の様なホイッスラーの似顔絵があり、それを見た瞬間、「二葉目の写真」の左端の人物に似ていると思い、今まで良く知らなかったホイッスラーを調べる事にしました。




ホイッスラーとは?





切り取って検討


写真からの切り抜き  ←  これが写真の左端の人物です。
ロダンが制作依頼を受けたホイッスラー顕彰碑 → ロダン作ホイッスラー顕彰碑石膏像


       顔拡大

写真の顔の部分拡大
ロダンのホイッスラーの似顔絵

ホイッスラー顕彰碑石膏像写真上に描か
れたロダンのホイッスラーの似顔絵拡大



写真と似顔絵、似ているでしょうか?


多分、多くの人が半信半疑という所でしょう。ただ、これを手掛かりに、「二葉目の写真」の人物探しが大いに進展して行きました。
 ホイッスラーを調べると、意外なことに、クールベとのつながりが現れてきます。クールベは1865年に北フランスの避暑地トルーヴィルに行き、ホイッスラーとその恋人ジョーに会い、彼女をモデルに数点描いています。翌66年にもパトロンの一人ショワジュール伯爵の招待を受け、ドーヴィルに滞在、ブーダンとモネ、モネの彼女カミーユを食事に招待しています。これは、一葉目の写真のシャイイ村でモネが「草上の昼食」を描き、そのモデルをクールベがかってでた話ともつながり、バルビゾン村の住人ルソーともつながります。そして、モネの「草上の昼食」の中で4人分のモデルを務めたバジールの身長の事で参考にしたファンタン=ラトゥールの「バティニョルのアトリエ」と同形式で群像を描く「ドラクロワ礼賛」のなか、中央に立ってこちらを向いているのが、ホイッスラーで、ファンタン=ラトゥールと特別の仲のよさがうかがわれます。
 ここで「二葉目の写真」にもしかしたら、ファンタン=ラトゥールもいるかもしれないという考えが浮かんできます。そして、それが、1867年に万国博覧会美術展の委員長に任命されたルソーの年代で誰かいないだろうかという発想につながり、当時一番著名な画家というと誰なのだろうか調べると、現在ではほとんど忘れられた、万国博覧会美術展副委員長に任命されたメッソニエという名が出てきます。この二人を調べ、「二葉目の写真」の中に見付けられれば、相互の確証にもなり、写真が撮られた状況も見えてくるかもしれません。
 その前に、ホイッスラーの確認を取っておきます。



「ドラクロワ礼賛」の中のホイッスラー
「ドラクロワ礼賛」に
描かれたホイッスラー

1864年頃
写真の人物
写真の人物
1867年以前
ホイッスラー肖像写真
ホイッスラー肖像写真
1878年

今度はどうでしょう? 同一人物と認定できますか? まだなんとも言え
ないけれど、まったく似ていないとは言えない、位にはなりましたかね?





これで終わりでは余りに短いので、ホイッスラーとファンタン=ラトゥールの事を少し書きましょうか。その前に、ファンタン=ラトゥールの「ドラクロワ礼賛」を掲載しておきます。


ファンタン=ラトゥール作「ドラクロワ礼賛」

内所話:最初カラーで掲載しました、すると、なんとなく後ろめたい気がします。画像自体の著作権は切れてるとはいえ、こういう画像を管理する人がいると思うと、いくら営利目的ではないとしても、同じイメージの画像を使用しているのだから、何か悪い気がします。貧乏性とでもいうのでしょうか。画の鑑賞のためではないので、白黒画像にしてみました。これで気が少し落ち着きます。参考資料として画像が大きいからだろうか、まだ気が落ち着きません。適正サイズってあるのだろうか?少し小さくしてみます。こんなとこでしょうか?



「ドラクロワ礼賛」の解説1.ファンタン=ラトゥール
2.ホイッスラー
3.マネ
4.ボードレール(詩人)
5.ブラックモン(版画家)
6.シャンフルーリー(評論家)
7.バルロワ
8.ルグロ
9.コルディエール
10.デュランティー(評論家)

ファンタンは1851年から1854年までサン・ミッシェルの近くのカルチェラタンのセーヌ河沿いにあったルコック教授の私設のアトリエに通い、視覚による記憶に基礎を置く授業を三年間みっちり受けます。ホイッスラーも彼に学んでいます。ロダンもルグロも彼に学んでいることを付け加えましょう。
 1852年に初めてルーブル美術館で模写をし、1853年にボンヴァン、ブラックモンに出会います。
 1854年に国立美術学校に受かり、ドガ、ルグロと同期になりますが、三ヵ月ごとにある試験の三回目で振るい落されたとありますが(ドガが美術学校を直ぐに止めたのは同様な理由だったのかも知れないと、ふと思いました。ドガも)、一年位しか学校には居ず、教授の居ないルーブル美術館で勉強を続けます。
 1855年に模写の場でアストリュックと出会っています。アストリュックがパリに出て来て直ぐですが、1856年までクーチュールの私設のアトリエにいたマネとは1857年にルーブルで出会うとあり、彼との出会いはルーブル美術館のヴェニス派の画の模写の場まで待たなければならない様です。
 1858年にホイッスラーとモリゾ姉妹に、これもルーブル美術館で出会います。ホイッスラーとの関係はこれ以後とても重要なものになりますが、ベルト・モリゾが姉に書いた手紙(1871年)の中に「ファンタンの性格はしばしばドガの様に『老嬢の気難しさ(とげとげしさ)』がある」とあり、この他にも色々あるモリゾ女史の周囲の人物評の面白さは別にして、ホイッスラーとファンタンはお互いに疑り深く、嫉妬深い性格が災いする事があった様ですが、そんな性格の同質な部分で理解できたのか、片やアメリカ人で、片や、ロシヤ人とイタリアの血を引く父親から生まれたファンタン、共にフランス人ではない画家の立場で友情が長続きしたのかも知れません。ホイッスラーはこの年ルグロとファンタンをイギリスの外科医兼版画家で裕福なヘイドン(ホイッスラーの腹違いの姉の夫)の家に連れて行っています。銅版画の手ほどきを受けたり、ナショナル・ギャラリー(美術館)で見たベラスケスに感動したり、王室展覧会にホイッスラーと行き、ロマン派の様な画がたくさん展示されている事と、イギリスには随分以前からクールベがフランスで初めて提唱した写実主義が存在していたのを発見し、その後、前ラファエル派の画家とも友達になり、イギリス美術の方がより先進と言う思いを強くした様です。それが後に印象派と行動を共にしない理由の一つになったのかもしれません。それよりも、ホイッスラーの義兄ヘイドンを通して沢山の美術愛好家と知り合い、彼等がどんな画を好むかを知った事の意味が大きかったでしょう。ヘイドンはファンタンの小さな肖像画を買い、ルーブル美術館にある作品の模写を注文します。ルグロは画を売るより将来教授として迎えられる人間関係を得ます。
 1859年初めてサロン展に応募しますが、落選。ボンヴァンのアトリエでこの年落選したホイッスラー、ルグロ、ファンタンにリボを加えて展覧会をやり、ボンヴァンが親友のクールベに助言を求めた時、クールベが多かれ少なかれ彼に影響を受けた若い画家達の画を見せられて、どんな気持ちだったのでしょうか。1855年の万国博覧会の時、個人で展覧会場を開設したクールベは既に若者の偶像で、この時に彼らはこぞってボンヴァンに紹介を頼んだと思われます(想像で文献上にあるわけではありません)。リボと仲のいいブーダンもこの展覧会を見に来て、クールベと会っています。(これは前サイトとの係わりで、クールベとブーダンの出会いは前サイト5章のブーダンの略歴にあります。)
 1861年サロン展初入選。二度目のイギリス旅行をし、ホイッスラーからエドウィン・エドワーズ夫妻を紹介され、彼等を通して多くの顧客を得る事になります。年末、クールベは後進の為ノートル・ダム・ド・シャン通りに自主性を重んじる教授の居ないアトリエを開放、しかし、すぐ閉鎖になりますが、数ヵ月ファンタンはそこに通いました。
 1862年イギリスの王室展覧会に初出品。展覧会カタログには1863年にルノワールと出会うとあり、何処と書いてありませんが、「印象派事典」には、1862年にアトリエ・グレールでとあり、その後ルーブル美術館に模写に連れ出し「ルーブル、ルーブルしかないよ。しかし、模写ばかりしちゃいけない」と言ったとあります。こちらの方があり得る気がします。
 1863年に落選者展があり、マネの「草上の昼食」がスキャンダルになりますが、ファンタン=ラトゥール展カタログ年賦には記載がありません。マネ、ホイッスラーを除くほとんどの画家の年賦に落選者展の記載がありません。美術史的には突出した出来事でしたが、落選者展出品で評判になった二人の画家以外には、サロン展に落選した事実は特筆すべきことではないからでしょう。
 1864年7月から10月まで三回目の渡英。ホイッスラーはファンタンへの注文をとる努力をしますが、ファンタンは時々迷惑顔をした様で、社交的生活は疲れると記載されますが、何が出典で何の意味があるのでしょうか。
 以上は以前に書き上げた「画家たちの肖像」の一部抜書きです。「ドラクロワ礼賛」の制作年代は1864年なので、この辺で切り上げます。

これで、ファンタン=ラトゥールとホイッスラーのつながりが理解できると共に、ファンタン=ラトゥールとクールベとの意外な関係も判明、その他、興味深い画家たちの交流を垣間見ることができたと思います。





次ページはホイッスラーによって浮かび上がったファンタン=ラトゥールとルソーの線から現れたメッソニエにあたってみます。