クールベとルソー、他に7人の画家たちが写っている写真を物語る




ファンタン=ラトゥールメッソニエは果たして「写真」に見出せるか?





ファンタン=ラトゥールを探す



○ まずファンタン=ラトゥールの肖像を探してみます。

○ 探せたのはすべて自画像でした。


ドラクロワ礼賛画布油彩鉛筆デッサン画布油彩画布油彩画布油彩


これらの肖像に似た、写真の人物を探してみます。


該当する人物の切り抜き



写真の人物 ←写真の中で該当者を見つけました。


写真の人物と自画像の比較検討




  


反転画像

  


反転画像
  

反転画像


やりすぎのような気がしますが、自画像との比較ということと、年代がまちまちと言うことで試みましたが、この人物がファンタン=ラトゥールであるということに納得ゆきますでしょうか? 半分を反転画像にしたのは、自画像は画家が鏡に映った自分の顔を描いているからで、本来、反転が正確な本人の肖像の筈だからです。これは前サイトのミレーの自画像デッサンで実証を試みました。


内所話:これだけ画像を使って、著作権の事を考えなくてもいいというのは、なんとも快いものです。画像は全てファンタン=ラトゥールの自画像です。画家は1904年8月25日に亡くなっているので、2006年10月現在、没後まる102年が過ぎ、画像の著作権は消滅し、無許可で使用しても著作権に抵触しないと考えてよいでしょう。ただし、所有していない画像を使用する事によって利益が生じる場合、やはりその利益はどこかに還元されるべきだと思うので、営利目的での二次使用は謹んで頂きたいと思います。この部分は内所話ではありません。





次はメッソニエに挑戦します



○ まず、メッソニエの肖像を探します。

○ 自画像と肖像写真が見つかりました。


ナダール撮影肖像写真
ナダール撮影写真

自画像水彩
自画像水彩

自画像板油彩
自画油彩(板)

ナダールの息子ポール撮影肖像写真
ナダールの息子ポール 撮影写真

油彩自画像
画題「画家の肖像」・自画像油彩



該当する人物の切り抜き




写真の人物 ←写真の中で該当者を見つけました。



写真の人物と肖像写真との比較検討



ナダール撮影若いメッソニエ写真の人物ナダールの息子ポール・ナダール撮影晩年のメッソニエ


ファンタンは自画像との比較だったので、メッソニエは肖像写真を選びました。



メッソニエの顔はかなり特徴があるので、部分での比較を試みます。


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― 眼と鼻の比較 ―
眼は年齢の差を考慮し、
下瞼の弛みを重視して、
鼻は少し鉤鼻の特徴を
以上で同一人物と・・・
認定できるでしょうか?



白髪で髭を伸ばしている晩年のメッソニエのイメージと「写真の人物」は合いませんが、ナダール撮影の若い時の黒髪で髭も髪も短い肖像写真は顔の輪郭からも、雰囲気からも同一人物であると感じさせます。



メッソニエ略歴

メッソニエは1815年リヨンで生まれています。父親は植民地の食品の役員を職業にしていたとあり、母親は有名なジャコット夫人の下で磁器に描く細密画を学んでいたとあります。メッソニエが3歳の時、一家でパリに移り、染料の卸問屋を開きます。メッソニエ10歳の時、母親が亡くなり、父親は彼をグルノーブルの大学区長(フランス独特の役職、初等教育から大学教育までのすべての教育機関を管轄するとあります)の家に里子に出しますが、2年後に、商売の上手く行かない父親にパリに呼び返され、郊外の寄宿学校に入れられ、会計士になる勉強をさせられます。(下線:メッソニエの画が細部まで丁寧に描かれているのは、この母親の影響でしょうか)
 1830年の七月革命(立憲王制成立)で破産した父親は資産の再建に忙しく、商売に必要な事を総て仕込んで貰う為、再びグルノーブルに送ります。しかし、再び、2年後に最終的にパリの父親の家に戻り、薬品屋に勤めます。しかし、父親の支援もあって勤めながらジュール・ポティエの所でも画を学ぶとあります。この後、コニエのアトリエに5ヵ月通うとあり、コニエには2度しか会っていないとも書いてありますが、しかし、仕事のやり方を覚えたとあり、ドガがラモテのアトリエに少ししか居なかった事と同様ですが、多分、ある人にとっては影響と言うものは期間に関係ないものなのでしょう。
 1834年にはサロン展に小さな水彩画が入選、水彩画が芸術友の会に百フランで買われ、その成功で父親はローマ行きを同意したとあり、旅立ちますが、イタリアにコレラが蔓延している為、リヨンより先には行けませんでした。この時、リヨンでドービニーと知合っていると年譜にあり、ドービニーはこれからイタリアへ勉強に出掛ける所で、その後の二人の美術上の役割を思うと、当時、流行った「コレラ」が或る人達(ミレー等)に思わぬ影響を与えている事が判ります。ドービニーはイタリア行を決行しました。
 リヨンから戻ったメッソニエを驚かしたのは、父親が彼の名でアトリエを借りて用意していた事で、その為に家賃を定期的に払う必要から扇子に画を描いたり、1u5フランで宗教画を描いたりするうち挿画画家として活躍する様になり、翌年父親の家から出て、その翌年の1838年エマと結婚し、ブルボン河岸に移り住みます。
 1840年3等賞、1841年2等賞、1843年待望の1等賞のメダルをサロン展で獲得します。
 1845年父親が亡くなりますが、最終的に120万フランの遺産を遺し、そのうちの30万フランをメッソニエは遺産として受け取り、翌年そのお金でポワシーに館を購入します。
 1848年二月革命で立憲王制から第二共和制になった無審査のサロン展でメッソニエは1等賞を獲得します。新しい「共和国の為のシンボル」コンクールも受賞は後にメッソニエの跡を継ぐ保守派の雄ジェロームということで、第二共和制になっても、美術界における保守的傾向は残ったようで、1850年まで続くサン・ルイ島のローザン館のサロン(晩餐会)で後の第二次ナポレオン帝政の重要人物との関係が生まれ、その後の目覚しい成功につながって行きます。
 1848年12月ルイ・ナポレオン、大統領に当選。1851年12月クーデター。1852年12月ナポレオン三世となり、第二次帝政が布かれ、メッソニエの活躍の場も敷かれます。
 1855年のパリの万国博覧会の美術展でモルニー(ナポレオン三世の異父弟)とル・オン夫人(モルニーの情人且つ後ろ盾)所有のメッソニエの画が展示され、モルニーは賞選定委員の議長として、国際的評価付けとして、メッソニエに十の大賞の一つを与えました。この時ナポレオン三世はメッソニエの「乱闘」を二万五千フランで買取り、パリ万博を訪問しに来たイギリスのヴィクトリア女王に贈りました。現在もウインザー城に飾られているはずです。
 1856年レジョン・ドヌール・オフィシエを受けました。
 1859年オーストリアとの戦争が起きた時、参謀本部随行員として、軍隊に付いて行き、この経験から「ソルフェリノのナポレオン三世」を描き、これは当時最高額の五万フランでナポレオン三世に購入され、以後、戦争画の分野が新しい題材に加わり、第二帝政の安定に少なからぬ貢献をした訳です。
 1861年に学士院会員に当選、メッソニエの46歳での学士院会員就任は若い学士院会員達の勝利として報道されました。
 1867年の万国博覧会の年、審査員でしたがサロン展には出品せず、万国博覧会の美術展に展示、名誉大賞を受けます。同時に三等勲位に当るレジョン・ドヌール・コマンデゥールを受けます。
 1870年のサロン展には出品しませんが、審査員として勤めを果たし、その後で、7月普仏戦争が始まり、皇帝軍に同行、敗北が続くとすぐ帰宅、ポワシーで地方軍を組織し、指揮を執ります。ナポレオン三世がセダンでプロシャ軍の捕虜になり、帝政が崩壊した時にメッソニエはポワシーを防衛すべく頑張り、結局敗走、しかし、まだ徹底抗戦しているパリの指令官に頼んで、パリ包囲の中で、1871年1月まで国民軍の歩兵隊の砲兵参謀将校の任務に就き、この下に志願したマネが砲兵将校として配属されました。フランスがドイツに降伏し、国民会議の選挙を実施する2月26日に、この軍役を辞めている様です(画家としてのメッソニエより、この愛国的行為によってガンベッタは彼に好感を抱いていたと思われます)。その後、パリを離れ、ポワシーに戻り占領されていた館を取り戻し、避難している家族にニース(南仏)に行くと手紙に書いています。
 1872年のサロン展には作品を出しませんが、審査員の議長として、クールベの画をパリ・コミューンに参加したのを理由に拒否する事を強固に主張し、結果、クールベは落選しました。その後、サロン展に於ても画家が自己の感覚を表現する芸術性を問われる様になった為か、1876年までサロン展に作品の発表はしませんが、審査員としては参加しています。
 1873年ウィーンの万国博覧会の審査副議長として参加、9点の作品を展示しています。
 1875年から芸術同盟団体展に出品し始め、1877年にアレキサンドル・デュマ(息子)の肖像画でサロン展に復帰、熱烈な歓迎を受けます(小デュマは当時かなりな流行作家になっていた様です)が、何故かその後サロン展に参加せず 芸術同盟団体展にだけ作品を送っています。
 1878年ポワシーの市長に当選、十八ヵ月その任務に就いたと記載されていますが、何故一年半の任期で終わったのか理由の無いのが不思議です。この年のパリ万国博覧会に16点展示。審査副委員長として、名誉賞を授与されています。

 1880年二等勲位に当るレジョン・ドヌール・グラン・オフィシエを授与されます。
 1881年にモネがカミーユの亡くなったヴェットューユからメッソニエの館に程近いポワシーのヴィラ・サン・ルイに移って10年以上住みますが、全く出会いは無かったと言う事です。但し、メッソニエは風景画家のドービニーとは友達で、バルビゾンの画家の画は好んだとあります。これ等の事から、自分の置かれた立場を超えて、曇りの無い眼でものを見、評価する事は難しく、自省すれば、メッソニエを決して非難できないのではないかと、改めて思いました。
 1883、84年とジョージ・プティ画廊(1889年にモネとロダンの二人展が開かれた)で特別な展示をしています。
 1886年元老院(上院)に立候補、落選します。
 1888年妻エマが亡くなります。
 1889年はフランス大革命記念百年際で万国博覧会がパリでエッフェル塔と共に開催され、審査委員長の彼は大賞を受け、レジョン・ドヌール大十字勲章を佩綬し、エリザベス・ブザンソン(父親は元ポワシー市長)と再婚します。この年、国民美術協会が設立され、発起人であるメッソニエが会長に就任しました。
 1891年に亡くなり、マドレーヌ寺院で盛大な葬儀が行われ、「他人にも自分にも騙されなかった、その時代を代表する公然たる歴史画家」と言う墓碑銘と供にポワシーに葬られました。一時期、栄光のメッソニエ座像がルーブル美術館の中庭(女王の庭)に設置されていましたが、何時の間にか取り払われ、現在ポワシー市の公園に置かれています。 (未完の拙著「画家たちの肖像」より省略、抜粋)

メッソニエ坐像ルーブル・女王の庭に置かれたメッソニエ坐像
ルーブル・女王の庭

ポワシー市公園に置かれたメッソニエ坐像
ポワシー市公園


その当時非常に有名なのに、現在忘れ去られた画家の話には必ず引き合いに出されるメッソニエ、たぶん美術史ではほとんど問題にされない画家は、1967年ダリが「メッソニエ礼賛」を表明することにより、評価が少しだけ良い方に修正されたようです。ハイパーリアリズムの画家の出現で、画面は極小ですが、その元祖とも言うべきメッソニエが再評価されてもおかしくないと思いますが、相変わらず、ポンピエ画家(大時代的でもったいぶった画風の画家という訳が付きます)の代表のように言われ続けるメッソニエは、それでも、隠れ愛好家、賛美者は当時からいたようで、ゴッホはミレー同様、メッソニエを崇拝し、ドービニーが亡くなった時は慟哭しています。画家で初めてレジョン・ドヌール大十字勲章を佩綬するなど、当時の評価は、時代を背景にした部分があるでしょうが、彼なりの向上心、愛国心で生ききった類まれな画家でもあったわけで、少し長い略歴を記しました。





ファンタン=ラトゥールとメッソニエが「写真」の中に見つかった事は、偶然なホイッスラーとの出会いからとは言え、クールベとルソーを通した人間関係が肖像の単なる類似だけではない裏付けとして充分有効な証明になります。
 今後の推理はどういう展開を見せるのか? 印象派が活躍し始める少し前の美術界、リアリズムを標榜するクールベが活躍し、ロマン主義に組込まれる風景画家、バルビゾン派のルソーが公認された時代の画家たちの何人かがこの「写真」に写っている可能性が大きくなりました。どんな画家が写っているのか、19世紀後半にパリで活躍した画家たちを探して、「写真」の人物と見比べてみてみてください。思わぬ画家と出会うかもしれませんよ。