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クールベとルソー、他に7人の画家たちが写っている写真を物語る



かなり良い調子で「写真」の人物が見つかり始めました。勢いついでに、前列中央、椅子に腰掛けている年配の人物、多少高貴な感じがし、政府高官にも見える人物をルソー、メッソニエと同世代に探すと、メッソニエの略歴にも名が出、且つ、前サイトからバルビゾン村に住んでいたことが判り、ルソーともつながる画家、以前、たまたまルーブル宮殿のナポレオン三世の応接室が公開されたので見に行き、その部屋までの回廊に、彼の大きな風景画が掛かっていたので、彼は皇帝お気に入りの宮廷画家かと勘違いした、ドービニーが浮かび上がって来ました。ただし、「政府高官」にも見える要素も考慮し、二つの線を調べます。




検討する人物の切り抜き


  ←  前列の中央で椅子に腰掛けている人物。






美術に関係する政府高官となると、すぐ思い当たるのが当時の美術総監ニューウェルケルク伯爵です。彼はナポレオン三世の従妹マチルド皇女の愛人で、元彫刻家。ルイ・ナポレオン(後のナポレオン三世)が大統領に当選し、彼をまず国立美術館の館長に据え、その後で美術大臣に、そして、1863年に彼のためにつくった美術総監に任命しました。第二次ナポレオン帝政期の美術行政を取り仕切った人物です。従って、1867年の第二回パリ万国博覧会美術展は彼の下で開催されました。伯爵位は当然ナポレオン三世によって与えられたものです。




ドービニーとニューウェルケルの肖像


○ ドービニー

チャプラン作版画
銅版肖像画

石版肖像画
石版肖像画

ナダール撮影肖像写真
肖像写真ナダール撮影

肖像写真
肖像写真
撮影者不明



○ ニューウェルケルク

石版肖像画
石版肖像画

水彩肖像画マチルド皇女作
マチルド皇女作
水彩肖像画

アングルのデッサンによる銅版画
アングルのデッサン
による銅版肖像画

肖像写真ル・グレイ撮影
肖像写真
ル・グレイ撮影



「写真」の人物とドービニー、ニューウェルケルク、3つの肖像の比較検討



○ どの画像をもって比較検討するか、かなり複雑な要素が生まれそうです。


    


○ これでは、どちらとも決めかねます。拡大して部分的な比較が必要でしょう。


ドービニー         「写真」の人物       ニューウェルケルク
 
額 ドービニーの額「写真」の人物の額ニューウェルケルクの額
鼻 石版:ニューウェルケルクの鼻写真:ニューウェルケルクの鼻
髭 ドービニーの髭「写真」の人物の髭ニューウェルケルクの髭


この比較で、一番はっきりしたのは、鼻でしょう。又髭に関して、美術総監であるニューウェルケルク伯爵だとしたら、やはり、ナポレオン三世張りの横にピンと張った肖像写真にあるようなものであったと思われますし、ドービニーの髭の生え方と、「写真」の人物の髭の生え方はかなり酷似しています。そして、年齢を調べると、ニューウェルケルク1811年生まれ、ルソー1812年生まれ、メッソニエ1815年生まれ、ドービニー1817年生まれということで、「写真」前列の3人の人物の中で一番若く見えるので、ルソー、メッソニエとの外見的な年齢差からも、「写真」の人物はドービニーと同一人物と査定してよいと思います。 ちなみに、クールベは1819年生まれです。




ドービニーについて

ここでドービニーについて少し書いておきます。何故なら、美術史の観点から彼はかなり重要な役割を担った割に、印象派の画家やその領袖マネ、写実主義のクールベ、バルビゾン派のミレーやルソーと比べて、ブーダン同様、良く知られているとは思えないからです。サロン展審査員としても、セザンヌを高く評価し、若い印象派たちをサロン展に入選させるべく尽力し、加えて、落選者展さえ支持し、モネとバジールが考えていた、グループ展(後に印象派展として実現)への参加も表明しています。
 
ドュレという当時の評論家は「フランスの画家達」(1867年出版)の中でドービニーを「彼はその弱点の外見の利点を持つ」(ひどい訳です、原文:avantage de ce semblant d'inferioriteです。)と評しています。続いて「彼はルソーより熱心でなく、探求者でもなく、コローより理想家ではない」と書いていますが、一応、解説を試みてみます。まず、「コローより理想家ではない」と言うのは、風景画に森の精や恋人達の人物も配さず、「ルソーより情熱も探究心もない」と言うのは、ドービニーの風景画が印象を描き留めるのに苦心しているので、それが粗雑に見えるという事でしょうか? その事を最初に「弱点の外見の利点」と表現しているのでしょう。これこそ、バルビゾン派と印象派の仲立ちとなった画家のありようで、印象派が大きな影響を受けたのは当然でした。(独断と偏見に満ちた解説なので、反論があったら、謙虚に聞きます。又、原文の正確な訳がお分かりの方は連絡ください。)
 ドービニーは戸外で制作し、細部にこだわるよりも全体の雰囲気や色彩による調和などの印象を重視し、技術の高さ、誠実さ、新鮮さ、色の鮮やかさ、雰囲気の流動性を捉える力量、主題の単純化が評価されるようになり、画が徐々に一般大衆にも受け入れられて行くに伴い、批評家の中にも強力に自己の感覚を表現するのが芸術であると言う考えを押す人達も増えて、特に風景画家として印象派の先駆者であり、受け入れられてもまだ少数派であるにもかかわらず、サロン展の審査員に選ばれます。
 1866年、サロン展審査員に選ばれたドービニーはセザンヌを支持するものの空しく敗れ、「彼(セザンヌ)は毎回サロン展に下らない人間(審査員か?)が迎え入れる画よりも独創性を誇張した画を送る方を好む」と慨嘆します。そして、ルノワールが自分の名前を隠して審査会場から出てくるコローとドービニーに「友達のルノワールと言う画家の画が入選したかどうか」を聞いた時、ルノワールと言う名をドービニーは覚えていて、彼を支持したが、十回審査をやり直しても、残念ながら六人以上の支持が得られず落選した事を告げ「彼は落選者展を要求すべきだ」と付け加えています。ドービニーに促されて書いた落選者展の復活を要求をするセザンヌのニューウェルケルク美術総監に宛てた手紙がルーブル文書館に残されています。
 1867年は万国博覧会の開かれた年で、ミレーは特別展示されています。この年のサロン展は特別審査が厳しく、後の印象派もドガとモリゾ以外は皆落選しています。審査員にならなかったドビニーは、その落選した若い画家たちを前にして、「私的示威運動の為に会場を借りるならば若い画家達と一緒に展示する準備が出来ている」事を表明しました。バジールの手紙にもドービニーが自分達の考えに同意している事が書かれています。落選者展の請願書が出されました。結局実現しませんでしたが、この時、スキャンダルで若い画家達の偶像であったクールベとマネが自己を主張する為に個人展を開いた事と、若い画家達を支持し、共に何かをやろうとするドービニーの姿勢との違いを確認しておくことはドービニーを評価する上で重要な意味があると思われます。それは、金持ちのパトロン、或いは母親を持っていなかったから資金がなく個人展ができなかったというのではなく、彼は審査員を務めた経験から美術界を鑑みて、若者とともにいかに改革したら良いかを模索する立場を取ったということです。これは当時の芸術家の態度として、充分、評価に値することではないでしょうか。(未完の拙著「画家たちの肖像」より抜粋)万国博覧会の美術展でドービニーは1等賞(medaille de premire class)を受賞しています。 

彼が移り住んだ、オーヴェルニュ・シュール・オワーズはゴッホが自殺をし、村の共同墓地にゴッホ兄弟の墓が並んでいることで有名ですが、それ以前に、ミレーやコローが遊びに来、印象派たちが、彼がいるのでこの辺りに移り住んだり、泊り込んで、画を描き、その延長線上にゴッホが現れるわけで、ゴッホの終焉の地というので、現在はバルビゾンと双璧のパリ近郊の観光化した芸術村となっていますが、しかし、それは、若い後進の画家たちを正当に評価するドービニーが住んでいたからなのを忘れてはならないでしょう。前サイトに記しましたが、ドービニーのアトリエは公開されています。そこを訪れることは、ドービニーだけではなく、ミレーも含め、コローとドーミエたちの交流とその後の印象派たちが聖地のように訪れ、画を描いた美術史的な意義を知れば、ゴッホが息を引き取った小さな部屋を覗くのとは別の意味で、価値あるものになるのではないでしょうか。





この段階で、前列の椅子に腰掛けた年配の画家たち3人は判明しました。それからすると、サロン展(当時唯一の公認された美術展覧会)に参加している画家たちの集まりと考えられます。となると、「一葉目の写真」の若者3人を除けば、彼らもサロン展に入選している画家で同じことになります。といって、当時はサロン展に入選しなければ画家と認められなかった時代で、画家ならばサロン展にかかわって当然でした。既に判明した、クールベ、ファンタン=ラトゥール、ホイッスラーが写っていることを考慮すると、まだ未定の人物が、まったくの官展派で箸にも棒にもかからない、古い因習を頑なに守るサロン系の画家とも思えませんが、もし、そのまったくのサロン系画家だとしたら、今日に名も残らず、肖像も残っている可能性が少なく、見つけるのは難しいことになります。そうでないことを祈りつつ、先を続けます。あと3人。