ここまでは何とか、偶然と、クールベとルソーを基にした推理が功を奏し、画家たちを見つけ出せました。あと3人の若い、顔をカメラの方に向けている人物たちを、何を手掛かりに見つけたらいいのか? 官展派、官学派、・・・・・。
ふと、「一葉目の写真」を調べているときに、ドガが印象派展にいろんな画家たちを引っ張り込もうとしたことで他の画家から非難されたとありましたが、印象派の中でドガが他の画家たちと何処か違うのは、彼が銀行家の息子だったとか、リセ・ルイ・ルグラン校出身だというだけではない、若いときはドラクロワやアングルに憧れ、アングルに直接会って、「なんでもいいから、線を引きなさい」といわれた言葉を生涯の指針にし、デッサンを重視した点では正統派に属し、他の印象派とは違い、デッサン力のある官学派の画家との付き合いにはこだわりを持たなかったような気がしますが、彼の経歴の中に、イタリア留学で八つ年上の、同じ私費でイタリアに勉強に行ったモローと非常に親しくなったことを思い出しました。異常なくらいべったりだったようで、モローはドガの姿をデッサンに残しています。イタリア私費留学決行前に、ドガは大学の法学部に入学しますが、法律の勉強に興味が湧かず、父親に画家になりたいと宣言し、生活費をとめられ、屋根裏部屋の生活を余儀なくされ、その生活環境の中で、目の病気に罹ったと語ったことを姪が書いていますが、ただこのことをドガは誰にも語らなかったと、晩年のドガの世話をして知り得た話として記しています。この後美術学校に入学、ローマ賞(1664年頃つくられ、フランス・アカデミー学院分館がメディチ館に創設された1666年以降、ローマ4年間の留学制度が確立したようです。サロン展同様、人の口の端には上らなくなっていますが、現在も存続する歴史ある賞です。)を獲得できず、美術学校をやめ、師事したシャセリオーが若くして亡くなったことなどから、一年後に祖父のいるイタリア行くことにします。その後もたびたびイタリアに行き、1875年に、父親の援助で、たぶん、母親の手紙から推測して、失恋の痛手を癒すのも兼ねて、2年間のローマ留学をするモローと出会ったわけです。このときドガ23歳、モロー31歳でした。モローは官学派に近い画家です。