クールベとルソー、他に7人の画家たちが写っている写真を物語る



ドガの交友関係を調べると、ドガが肖像画を描いているもう一人のローマ留学で知り合った画家が浮かび上がります。レオン・ボナ。バイヨンヌ(フランスの南西部の端、高級避暑地ビアリッツから7キロボルドー寄り)に彼の収集作品を寄贈する条件で建てられた世界的に有名なデッサンを所蔵する、彼の名を冠するボナ美術館があります。彼の出身地です。そこに、ドガの描いたボナの肖像が所蔵されています。まずはその肖像画を見てみましょう。



ドガ作ボナの肖像・油彩
ドガ作「ボナ」1862年ボナ美術館蔵



○ はたして、「写真」の中にボナを見つけることは出来るでしょうか?


「写真」の中に該当者を探す





推理がぴったり当たるとは驚きです。




「写真」の人物の切り抜き





肖像写真も見つけたので、一応それも掲載。

ボナ肖像写真ボナ肖像写真



「写真」の人物と、ドガの肖像画、肖像写真を検討




ルソーにしてもクールベにしてもこの人物にしても、皆顎を引いていないので、肖像写真との比較に多少の見た目の違いを感じてしまいます。最初のドガの肖像画で充分ボナと思いましたが、前サイトのウーヴリエをトレと査定し、あとで訂正したこともあるので慎重に何度も見直しました。二重まぶたでくりっとして見える目、耳の形と付いている位置など、繰り返し眺めていると、顔の輪郭、たぶん片側だけで咀嚼したためにあごの発達が不均一になり、顔が少しだけ右に曲がっているのに気付きました。それは、高齢のボナの肖像写真に顕著です。この顔の輪郭は決定的でしょう。ドガの肖像画と見比べたときの直感は正しかったわけです。 





ボナ略歴

ボナは1833年にバイヨンヌで生まれています。ドガより1歳上です。13歳のとき、投機に失敗し、破産した一家はスペインのマドリッドに移り住み、フランス語の本屋を開きます。父親にプラド美術館によく連れて行かれ、画に才能を見せ始めアトリエに通うようになり、長足の進歩をしたとか、しかし、1853年、20歳で父を失い、下に5人の弟妹のいる一家の長になり、バイヨンヌに戻ります。地元の画家に画を見せたところ、彼の推薦で市より三ヵ月ごとに1500フランの奨学金が支給され、パリに美術留学できる事になり、勇躍してパリに出、コニエのアトリエに入りました。彼の精進振りはそんな環境から生まれ、身を粉にして勉学に励んだようです。1857年3点の肖像画がサロン展に入選、その年のローマ賞に挑戦しますが、惜しくも次席でした。しかし、バイヨン市は奨学金の支給継続を決め、ボナはローマ留学が可能になりました。家族にも犠牲を強いる状態で、勉学にいやでも実を入れざるを得ない画学生で、多少、他の画家とは心得が違ったのではないかと思います。そんな中でドガとローマで出会っているわけです。片や、親から仕送りを受け、貴族の親戚のいるローマ滞在。片や限られた支給金での生活、しかもその一部を母への生活援助に宛てていたであろう事を考えると、必ずしも打ち解けた付き合いとは思えませんが、ラファエロやミケランジェロが身近に観られ、イタリアの大家の模写に時を忘れる美術環境がそんな思いを吹っ飛ばしたかもしれません。その後、メディチ館のアトリエで生きたモデルでのデッサンに通い、そこで、モロー、ドガと一緒の時間を過ごしたのでしょう。1861年にパリに戻りました。ちなみにドガは1859年3月末、モローも同年9月にパリに戻っています。パリに帰ったあと、サロン展で賞を獲得すべくがんばりますが、画壇閥に阻まれたのかうまく行かず、しかし徐々に名を知られるようになり、1866年にはパリ市から注文があり、1867年のパリ万博の美術展で優秀賞を受けました。その後順調に中央美術界に進出し、最終的にメッソニエと同様、レジョン・ド・ヌールの最高勲位大十字勲章を受けています。美術史上で彼の業績を考えたとき、収集した世界的に貴重なデッサンのために美術館を建てさせ寄贈した以外で特筆すべきことはほとんどありませんが、中央美術界にあって国から歴代大統領の肖像画を依頼されていたことより、1874年にサロン展の審査委員長になり、マネの「鉄道」を入選させた事を評価したいと思います。1876年のサロン展でもマネを推挙したそうですが、落選。このことを考えると、マネの画風にスペインの影響があり、ボナが若いときスペインで画を学んだ事と関連していると思われます。ボナは、「美的感覚に欠けた、理論のない頑健なだけの労働者」と評論家カスタニャリーに批判され、美術学校でも生徒から同様な批判を浴びたのは、写真の進歩に伴い、職人芸的な素描の正確さよりも、色彩や構図によってどう画を描くか、写真との違いを強調する風潮になっていったからではないでしょうか。印象派が受け入れられる時代が来ていたわけです。ここで少しだけ、写真と絵画の問題が提起出来ました。ドラクロワあたりから十分にその認識は生まれていたました。その当時は、写真はまだ参考資料として画家も利用していた程度でしたが、技術革新により、特に肖像画などは写真に取って代わられ、若者たちはより敏感に世相を反映したのでしょう。モローはそれを十分に受け入れ、マチスやルオーを育てましたが、ボナは古の大家のデッサンを集めているくらいですから、正確なデッサンの重要性を強調しすぎ、時代について行けず、若者に拒否されたのかもしれません。しかし、ボナがマネを推挙した動機を考えると、単なる、?ペイン風な画という感覚的な好みだけとは思えません。マネの人物画に、自分にはない新しい何かを感じていたのではないでしょうか。それぞれがそれぞれの役割を担い、精一杯生きていた時代です。それがこの「写真」の持つ意味かもしれません。こんな所で結論を出してはいけません。まだ一人、未定の人がいます。





となると残るは後一人。「写真」の中で一番若く見える人物。しかも、クールベの隣で、彼に対抗するかのように胸を張って写っている人物は誰なのでしょう。