クールベとルソー、他に7人の画家たちが写っている写真を物語る



年代から言うと、既に査定し終わった画家たちから推定して、モネやルノワールと同年配に見えます。果たしてその年代で、この集まりに出ることの出来る画家がいたのでしょうか? 当時のパリ画壇に手掛かりはないかと探していると、「最後の歴史画家」という言葉に目が留まりました。画家は1838年生まれです。ロダンが胸像を残していました。そこに「今日では忘れられた歴史画家の思い出を呼び覚ます。」と書かれています。その名はジャン・ピエール・ローレンス。

製薬会社が宣伝のために出版したらしい、古本屋で入手した今日忘れられた画家たちの小冊子(たった15ページ)「回顧美術アルバム」の1冊にありました。         J.P.LAURENS 

 

自画像の掲載


ローレンスの自画像
制作年代1876年 Galleria deggli Uffizi 所蔵

「忘れられた歴史画家」に反発を感じ、彼の力量を示すべくカラーで自画像を掲載しようと思いましたが、カタログの最後に著作権者が明記してあり、著作権に抵触しない小冊子の白黒画像からのコピーに切り替えました。



肖像写真 撮影年代1874年? 撮影者はナダール

ナダールの息子ポールの撮影との記載もありましたが、自画像との比較から年代を推定すると、まだ現役のナダール撮影と思われます。原版からのポジ写真です。





「写真」から切抜き






肖像の比較検討





髭が無く、年齢差があるため、細部の類似を探し、耳を取り上げてみます。


「写真」の人物
の左耳


ローレンス自画像
の左耳 傾き修正


「写真」の人物
の右耳


ローレンス肖像写真
の右耳


「写真」は粒子が粗くてはっきりしませんが、良く観ると耳の形はそっくりです。これは十分な決め手になると思います。



ローレンスについて

ローレンスは1838年、芸術的環境からは程遠い、ごく普通の慎ましやかな家庭(農家)に生まれ、彼の画家になりたいという情熱を前にして、何も知らない父親はたまたまトゥルーズに寄ったピエモンテ人(イタリア北西のアルプス山麓に住む人々)の教会の装飾をする遊牧画家達にまだ13歳の下の息子を託してしまいます。2年間彼等と南西フランスを歩き回った後、何も教えてくれず、虐待されただけの彼等から、トゥルーズの植字職工をしている父方の叔父の元にお腹を空かしへとへとになって逃げ帰り、その叔父がローレンスの画家になりたいと言う情熱を感じ取り、貧しい環境にもかかわらず、1854年トゥルーズの美術学校に入学させ、そこでヴィルムセン教授と出会いました。ローレンスは8歳の時に母親を亡くし、13歳で子育てに厭いた父親が遊牧民に厄介ばらいした様なもので、父親とも疎遠な環境で育った彼の才能をヴィルムセン教授は評価し、目を掛け、庇護し、その家庭に暖かく受け入れます。教授の亡くなった翌年、1860年には美術学校大賞を受賞し、3年間パリの美術学校で学ぶ為のトゥルーズ市の奨学金を受ける事が出来る様になり、パリに出ます。ヴェルムセン未亡人はローレンスの物質的な状態を考慮した結果(簡単に言えば、娘を養えるだけの経済力があるかどうかでしょう)、彼女が亡くなる1869年、やっと、一人娘マドレーヌとパリで一緒になる事を許します。ローレンス31歳、マドレーヌ21歳。その彼女との睦しさを、画の中でモデルにした宗教画や歴史画を多く残している事で証ているとあり、1913年にマドレーヌが亡くなった後その思い出の為に伝統的な墓の彫刻様式に彼女の横たわる姿を彼自身が彫刻する事で心の痛みを癒しています。(ドラロッシュもモネも亡き妻を画に描きましたが、ローレンスは彫刻しています。この違いは何なのでしょう。ローレンスは生前多くの彼女の肖像を描いているので最後は伝統的な墓様式の彫刻で締めくくりたかったのでしょうか。)、彼も1921年に亡くなり、モンパルナス墓地に葬られました(モンパルナスの墓地を訪ねた所、マドレーヌの名が最初に彫られ、建立は彼女の没年なので、前記記載の横臥像だけが郷里に奉納され、ローレンスは彼女と同じ墓に入った訳で、疑問が解けました)。もう1年長生きすれば、メッソニエやボナ同様にレジョン・ドヌールの最高勲位(3年前よりグロン・オフィシエたる者と言う事で)を受けた事でしょう。やはり遅れてきた歴史画家なのでしょうか。
 マドレーヌの事で話がローレンスの没年に飛んでしまい、画の業績を語りそこないました。1863年からサロン展の常連で、1875年には審査委員に就任、亡くなるまで務めました。国や公共からの画の注文が多くありますが、やはり、パンテオンの壁画「聖ジュヌヴィエーヴの死」を特筆すべきでしょう。1874年、同時にミレーにも依頼されましたが、ミレーは下描きを残しただけで1875年に亡くなってしまったのは実に残念なことでした。現在、パンテオンの壁画で一番有名なのはピュヴィス・ド・シャヴァンヌの「聖ジュヌヴィエーヴの生涯」の連作とガイドブックにありますが、ローレンスの壁画も力作です。これにミレーの壁画が加わっていたらと考えると、なんとも不思議な気がします。パリ市庁舎の壁画も描いています。公に認められた「最後の歴史画家」ということですが、現在ほとんど話題にされず、1997年パリ・オルセー美術館とトゥルーズ・オーギュスタン美術館の共同企画の展覧会をオルセー美術館の中2階で開催中偶然見ましたが、通常の入って左側の一階と地階の企画展示スペースではなく、何故、中2階の現在19世紀の写真が展示されているスペースでの展覧会か良く理解できませんでした。中2階にはロダンの彫刻が展示されているので、そんなつながりか?とも思えませんが。展覧会の規模の割には素晴らしいカタログが作られていました。これはローレンス再評価を促す目的でつくられたものなのでしょうか。
 母を早くなくし、少年時の2年間の遊牧画家との放浪期間の試練で人間的に鍛えられたのか、ヴェルムセン夫妻の感化に因るのか、トゥルーズの美術学校で大賞受賞の結果、奨学金を受けられ、パリ国立美術学校で学び、最終選考に残りましたがローマ賞は逸し、パリ市のデッサン教授を経て、パリ国立美術学校の教授に就任し、アカデミー・ジュリアンにも教室を持ち、実に律儀な彼の性格がデッサンの教授にしろ、サロン展の審査員の役割にしろ、大過なく勤め、最愛の妻と子に囲まれた、波乱のない、栄光に満ちた美術教授の一生だったのか、ロダンの「ローレンスの胸像」に「今日では忘れられた歴史画家の思い出を呼び覚ます」と書かれる様に、速やかに忘れられた画家として殆んど知られていない最後の歴史画家ローレンスについて、前記未完の拙著を下に少し語りました。

「写真」の撮影時は美術学校での勉学を終了し、画家としてパリ画壇に地歩を確立しつつある時期で、その覇気がクールベの隣で胸を張った姿に写っているのではないでしょうか。





余談


「写真」の人物の査定には特に役立たない立体造形ですが、何故ロダンと「忘られた歴史画家」が交流があったかというと、ロダンの出世作「青銅時代」がサロン展で人体から直接かたどりをしたのではないかと批判されたとき、ローレンスはロダンを擁護したことが交流の切っ掛けでした。ロダンがカレー市から「カレーの市民」の彫刻を依頼された経緯にローレンスの推薦があったと言うことです。ローレンスは最愛の妻を亡くした後で彼女の姿を彫刻しています。2点の彫刻写真を掲載します。

ロダン作ローレンス胸像
ロダン作ローレンス胸像
ローレンスとローレンス作妻の像
ローレンスと彼の彫刻した亡き妻の姿

(彫刻の写真について : ホイッスラーの顕彰碑のところででもチラッと思ったのですが、改めて、検討します。平面のイメージに関しては原画の著作権の消滅と共にイメージの扱いが自由になると解釈できますが、立体の場合を平面にしたイメージは、原作者のものではなく、その制作者、つまり撮影者等に帰されるわけです。従って、著作権は原作者の没後70年までとはならない訳です。ただ、ロダンが写真の上にデッサンをしている写真は、彫刻作品の写真ではなく、ロダンのデッサン作品として捉えれば著作権は問題ないでしょう。ローレンスが写っている写真に関しては、マドレーヌが亡くなった1913年頃で、93年くらい経っていることになり、撮影者が1936年より長生きしていれば著作権は存続することになります。厄介な問題提起になりますが、写真には個人所有と記載され、巻末に明示されていない著作権に関しては、出版社あるいは個人に帰属すると書かれています。ロダンのローレンス胸像に関しては巻末の写真の著作権に番号はありませんでしたので、出版社に帰属するみたいです。こういう場合、どんな方法があるのでしょうか?とりあえず、非営利であるし、特にローレンスの妻に対する愛情、ロダンとの交友関係の証として掲載しているので、無断使用をお許しください。という形で許されるのでしょうか?不許可の連絡を受ければすぐに外します。前記ローレンス展のカタログよりの転載で、出版はRMNです。)








これで全員の査定が終わりました。




判明した全員を、年齢別に書き出すと、テオドール・ルソー、メッソニエ、ドービニー、クールベ、モロー、ボナ、ホイッスラー、ファンタン=ラトゥール、ローレンスです。インターネットなどで調べる際の名前を綴っておきます。Theodore ROUSSEAU(1812-1867), Jean-Louis Ernest MEISSONIER(1815-1891), Charles-Francois DAUBIGNY(1817-1878), Gustave COURBET(1819-1877), Gustave MOREAU(1826-1898), Leon BONNAT(1833-1922), James McNeill WHISTLER(1834-1903), Henri FANTIN-LATOUR(1836-1904), Jean-Paul LAURENS(1838-1921)。 姓だけではなく名も記したのは、ルソーの場合、素朴画のアンリー(Henri)・ルソーの方が知られているので名前も入力しないと間違うので要注意!ということで、他の画家も同様に名前も記入した方が間違いありません。 http://www.photo.rmn.fr/ のフランス美術館連合写真部門のサイトにつなげれば彼らの作品を鑑賞できます(検索の仕方は前サイト参照)が、それ以外にも美術サイトは一杯あると思います。余り知られていない画家たちの画も良く観賞してみてください。忘られる理由はそれなりにあると思いますが、精魂込めて彼らの技量を出し切って描いたすばらしい作品が何点もあるはずです。
 幾世紀もの間忘れ去られた画家が後の時代に再評価されたことが何度かあります。忘られたままの画家の方が多いのは当然ですが、時代を超えて評価され続けるものを改めて見直し、何故かを知るのも、大切なことです。それにしても、残された歴史の評価は正しいのでしょうか? 正しい事実のみが歴史として残っているでしょうか? 歴史に残るという言葉の意味は時代の価値観の反映であることを改めて認識する必要もあるでしょう。そして、この写真として残された場面をどこまで分析、解明できるのか、一瞬の残像として定着された写真画像を前にして、推測はいかようにも成り立ちますが、その場についての証言は見つからず、真実は一つとすると、何を語り、何を読み取ることが出来るのだろうか・・・・・・・。


 さて、美術史を踏まえて、どういうわけでこの画家たちが一同に会しているのか考察してみてください。


参考: 1867年に開催されたパリ万国博覧会美術展の審査委員長にルーソーが選ばれ、この年の暮れ12月22日に亡くなりました。副委員長をメッソニエが務め、彼は美術展の名誉大賞を受賞しました。ドービニーはサロン展で1等賞を受け、クールベは「リアリズム」と銘打ってアルマ広場に展覧会場を設営し、個人展を開催しました。モローはサロン展に2点出品その1点が「オリフェウス」です。ボナは美術展で優秀賞を受賞しています。ホイッスラーは美術展に4点、サロン展に2点の作品を出品しています。ファンタン=ラトゥールは美術展には出品せず、サロン展に2点の肖像画を出品、そのうちの1点が正装した「マネの肖像」です。ローレンスもサロン展に出品、作品「モリアール!(橄欖園のキリスト)」は国の買い上げになりました。となると、万国博覧会美術展がどう絡むのでしょう。
 番外情報として、この「写真」に写っている以外の画家では、万国博覧会で、ミレーは国により作品を回顧展示され、マネはクールベ同様、万国博覧会開催時にアルマ大通りとモンテーニュ大通りの角に私費で個人展示館を設営し、作品を展覧しました。





「写真」の解釈も、画家たちの作品紹介も特にせず、略歴は数人の画家だけで、この集まりに関しての考察もほどほどで、結論は出しません。この顔ぶれを見ると、誰かがこの集まりについて手紙や日記などに書き残していてもいいと思いますが、今のところ見つけていません。このサイトを読んで、この「写真」に興味が湧いたら、画家個人ならびに19世紀後半のフランスの美術に関して、図書館なり、インターネットで調べることが出来ますから、自分なりの結論を出してみてください。自分で調べて、何かが判り、その時代を知る喜びを皆様にも知っていただきたいと思います。いつかこの「写真」のことで話し合えたらいいなと思っています。では又。
 ここまで読んだのなら、前サイト「写真:ミレーと6人の画家たち」にも興味があるのではと思います。少し重いですが、がんばって読んでみてください。よろしく。