判明した全員を、年齢別に書き出すと、テオドール・ルソー、メッソニエ、ドービニー、クールベ、モロー、ボナ、ホイッスラー、ファンタン=ラトゥール、ローレンスです。インターネットなどで調べる際の名前を綴っておきます。Theodore ROUSSEAU(1812-1867), Jean-Louis Ernest MEISSONIER(1815-1891), Charles-Francois DAUBIGNY(1817-1878), Gustave COURBET(1819-1877), Gustave MOREAU(1826-1898), Leon BONNAT(1833-1922), James McNeill WHISTLER(1834-1903), Henri FANTIN-LATOUR(1836-1904), Jean-Paul LAURENS(1838-1921)。 姓だけではなく名も記したのは、ルソーの場合、素朴画のアンリー(Henri)・ルソーの方が知られているので名前も入力しないと間違うので要注意!ということで、他の画家も同様に名前も記入した方が間違いありません。 http://www.photo.rmn.fr/ のフランス美術館連合写真部門のサイトにつなげれば彼らの作品を鑑賞できます(検索の仕方は前サイト参照)が、それ以外にも美術サイトは一杯あると思います。余り知られていない画家たちの画も良く観賞してみてください。忘られる理由はそれなりにあると思いますが、精魂込めて彼らの技量を出し切って描いたすばらしい作品が何点もあるはずです。
幾世紀もの間忘れ去られた画家が後の時代に再評価されたことが何度かあります。忘られたままの画家の方が多いのは当然ですが、時代を超えて評価され続けるものを改めて見直し、何故かを知るのも、大切なことです。それにしても、残された歴史の評価は正しいのでしょうか? 正しい事実のみが歴史として残っているでしょうか? 歴史に残るという言葉の意味は時代の価値観の反映であることを改めて認識する必要もあるでしょう。そして、この写真として残された場面をどこまで分析、解明できるのか、一瞬の残像として定着された写真画像を前にして、推測はいかようにも成り立ちますが、その場についての証言は見つからず、真実は一つとすると、何を語り、何を読み取ることが出来るのだろうか・・・・・・・。
さて、美術史を踏まえて、どういうわけでこの画家たちが一同に会しているのか考察してみてください。
参考: 1867年に開催されたパリ万国博覧会美術展の審査委員長にルーソーが選ばれ、この年の暮れ12月22日に亡くなりました。副委員長をメッソニエが務め、彼は美術展の名誉大賞を受賞しました。ドービニーはサロン展で1等賞を受け、クールベは「リアリズム」と銘打ってアルマ広場に展覧会場を設営し、個人展を開催しました。モローはサロン展に2点出品その1点が「オリフェウス」です。ボナは美術展で優秀賞を受賞しています。ホイッスラーは美術展に4点、サロン展に2点の作品を出品しています。ファンタン=ラトゥールは美術展には出品せず、サロン展に2点の肖像画を出品、そのうちの1点が正装した「マネの肖像」です。ローレンスもサロン展に出品、作品「モリアール!(橄欖園のキリスト)」は国の買い上げになりました。となると、万国博覧会美術展がどう絡むのでしょう。
番外情報として、この「写真」に写っている以外の画家では、万国博覧会で、ミレーは国により作品を回顧展示され、マネはクールベ同様、万国博覧会開催時にアルマ大通りとモンテーニュ大通りの角に私費で個人展示館を設営し、作品を展覧しました。